■ 月冴ゆ
「あーっ、Jッ!!」
 角を曲がって、研究所の門が見えてきたところで、Jは自分を呼ぶどことなくがっかりした調子の声にひょいと視線をあげる。そこには、自分に向かってたったか駆けてくる豪の姿がある。
「まだ来んな!」
 勢いをつけて飛びつかれ、驚いてたたらを踏んだJを押して、豪はいま来た道を戻らせようとする。
「え? な、なに?」
 ぱちくりと瞬きを繰り返し、Jは自分をぐいぐいと押しやる豪の後頭部に、戸惑いがちに問いかけた。


 今日は、予想だにしないハプニングに見舞われ続ける。そんなに日ごろの自分の行いは悪かったろうかと、若干の自己嫌悪に陥るぐらい、よろしくない一日だ。
 朝、登校途中に出会った近所の野良猫には、目の前に立ちふさがれてガンを飛ばされた。体の大きさがぜんぜん違うくせに、その思わぬ迫力にたじろいで、あとからちょっと切なくなった。
 信号には片っ端から引っかかり、いつものバスには乗れない。無駄に消耗しながら学校に着いたら着いたで、珍しくテキストを忘れていた。極めつけは体育の授業。後頭部にクリティカルヒットしたバスケットボールだ。
(……あれは痛かった)
 ぼんやり思い返していたら、痛みの感触が甦ってきた気がして、Jは少しだけ遠い目になる。
 小さなこぶひとつですんだのは、怪我の功名だった。もしも見えるところにあからさまな青あざでもつくろうものなら、それこそ土屋が真っ青になるだろう。まだ付き合いが深いとは言えないが、過保護で心配性で優しい保護者を、Jはきちんと把握している。
 体格の差があるから、振りほどくのは簡単だったろう。それでもあえて素直に従っていたJは、近所の公園まで来てようやく足を止めた豪に向き直り、改めて口を開く。
「で、豪くん。どうしたの?」
「いいから、この辺うろうろしてろ」
「でも、ボクは戻らないと……」
 せっかく、下校時に入れられた土屋からの連絡に従い、買い物もすませてきたというのに。「お使いもあったんだし」と言いながら手の中の袋を見せれば、豪はそれをひったくり、「おれが届けとくから」とあくまで譲らない。
「ボクが行くと、なにか都合が悪いことでもあるの?」
「あー、もうっ!! いいからここにいろ。で、迎えに来るまでくんなよ」
 いいな、と一方的に念押しをして、豪はばたばたと駆けていってしまった。
「いいなって言われても」
 それは困る。参ったなあ、と口の中で小さく音を転がしながら、Jはそれでも、素直に公園内のベンチへ足を向ける。
 きっと、彼は自分に内緒で何かをしたいのだろう。懸命に口に出さないようには気をつけていたが、目が、表情が、すべてが雄弁に物語っていた。買い物は届けてくれるようだし、特に用事はない。だから、その思惑に乗ってみることにしたのだ。
 豪をはじめとした、新しくできた友人たちはみな、Jには考えの及ばないような世界を見せてくれる。彼らが自然体でやってのけるそれが自分には叶わないのは時に切ないが、眩しさに、憧憬に、胸が高鳴るのを止められないのもまた事実だ。自分の知らない世界を見せてもらいたい。この狭い世界を、もっと広げて欲しい。
 果てしないその願いに、彼らは軽やかに答えてくれる。
 手持ち無沙汰に見上げた空には、白くうっすらと昇りかけの月が見える。吹き抜ける寒風にコートの襟をかき寄せながら、Jは小さく笑みを口元に刻み、元気な彼が呼びに来てくれるのを、素直に待つ。


 まもなくして呼びに来たのは、豪ではなくて二郎丸だった。
「あ、いただす!」
「あれ、二郎丸くん?」
「さ、来るだすよ」
 豪の説明はあまり上手ではなかったらしく、探し回らされたことを愚痴る二郎丸をなだめながら、Jはおとなしく付き従う。
 連れて行かれた先は、先ほど追い出された研究所。さて、いつものごとく挨拶を、と思いきや、むんずと腕を掴まれ、ずんずんと廊下を引きずられていく。コートを脱ぐ暇も、かばんを片付ける時間も与えてもらえない。
「あの、どうなってるの?」
 それより何より、いつもなら大人数がうごめいているため、どことなくざわついている研究所がしんと静まり返っている。不審に思って先を行く二郎丸にJが問いかけるも、「いいから黙ってついてくるだす」と言われるきり。
「いくだすよー」
 辿りついたのは食堂で、ドアの前で一声そう言うと、二郎丸はJの背後に回りこみ、部屋の中へと押し込んだ。
「ハッピーバースデイ!!」
「うわあ!?」
 つんのめりながら部屋に入り込むのと、聞きなれた声の合唱に合わせ、何かが弾けて色とりどりの細かな物体が降ってくるのは同時。驚きに慌てて視線をうろつかせれば、頭からかぶっていたのは紙テープやら紙ふぶきやらで、出所だろうクラッカーの残骸を手にしているたくさんの顔。そして、目の前に差し出された包み紙。
「お誕生日おめでとう、Jくん」
「烈くん?」
 綺麗にリボンのかけられたそれと、持ち主の顔とをかわるがわる見上げていたJは、横合いからの闖入者に視線を向ける。
「あーっ! 兄貴、ずりーぞ! おれが一番って言っただろ!?」
「うるさい。お前がぐずぐずしてるのが悪い」
「そうでげすよ。さ、Jくん。これはわてからのプレゼントでげす」
 ばっさりと一刀両断した烈に便乗し、反対サイドから藤吉が身を乗り出してきた。かばんを手からもぎ取り、そこに押し付けられるようにして渡されたのは大振りの箱。
「ティーポットとマグカップと、あとハーブティーのセットでげす」
 状況整理の追いつかないJを尻目に、その後ろからはリョウがずいと包みを差し出す。無言の中にも受け取れというメッセージを読み取り、Jはおずおず手を伸ばす。
「マフラーと手袋だすよ」
「お前、持ってなかったろ?」
 ひょっこりと藤吉の陰から顔を覗かせた二郎丸が笑い、リョウは微笑を添えて「風邪を引かないように」と付け加える。
「で、僕からは目覚まし時計。朝の散歩に役立つといいと思って」
 いまだ文句を言い続ける弟を見捨て、烈はにこりと音のしそうな笑顔で、はじめにJが目にした包みを、その腕の中の贈り物の山に上乗せした。


 包み紙の山の向こうで、きょとんと目を見開いて硬直していたJは、ゆるゆると回復する言語中枢をフル回転させて、声を絞り出す。
「あの、これ……」
「お誕生日プレゼントだよ」
 やさしくそれに答えたのは、馴染み深い大人の声。
「はい。私からは腕時計」
 外に行くのに便利だろう、と付け加えられたが、Jの聴覚はその手前の一言で止まっていた。
「誕生日、プレゼント?」
「お前にばれないように、みんなでこっそり準備したんだからな」
 憤然と言うのは、むっつり顔の豪だ。一番にプレゼントを渡したくて、それでJを呼びに行く役目を何とか二郎丸に押し付けたのに、すべてが台無しになってむくれているなどということは、Jにはまったくわからない。ただ、その心中を正確に察することのできる烈たちが、くすくすと楽しげでちょっと意地の悪い笑みを浮かべるだけだ。
「これ、おれからの」
「ボクに?」
「他にどうしろってんだよ」
 照れてわずかに上気した頬を隠すようにわざと憮然とした表情を作りながら、豪はJに腕の中の山を手近にあった机に置くよう言い、自分の贈り物を開けてみろとせがむ。
「よ、よくわかんなかったけど、お前、おれと違って三日坊主じゃなさそうだからさ」
 包みの奥から出てきたのは、分厚い日記帳だった。
「豪にしては珍しく、すっごく悩みながら選んでたんだよ」
「兄貴っ!!」
 笑い含みに烈に解説され、豪は慌ててその口をふさぎにかかる。手の中の日記帳と、じゃれあっている豪と烈と。周りで自分に笑顔を送ってくれている面々と、飾り付けられた部屋と、いつの間にか用意されていたご馳走と。すべてを順々に見やり、Jはもう一度、手元に目を落とす。
「あの……」
 ようやく口を開いたJに、豪と烈はぴたりといさかいを止め、室内のすべての視線が注目する。
「ありがとう」
 悩んで悩んで、それから、複雑に絡み合った思考の奥にあったひとつの単語を選び出して、Jは泣き笑いのような表情を浮かべた。困惑の表情しか浮かべていなかった当人からの一言に、部屋の空気はふんわりと暖かさを増す。そして、口々に祝福の言葉が浴びせかけられる。


 さらに山に追加される品々と、向けられる笑顔。そのすべてから自分に向けられる溢れんばかりの優しさを感じ取り、Jは自然と表情が緩むのを知る。
 どの品もみな、彼らが自分を見ていてくれることを教えてくれる。
 自分のこぼした小さな言葉を、思いを、拾ってくれているとわかる。
 静かにそっと包み込んでくれる彼らに、嬉しくてしかたなくなる。
 おめでとうと言われて、ありがとうと返す。
 その短いやりとりこそが、自分にとっては何よりの贈り物だ。


 どうかどうか、いつまでも。
 誰とは知らぬ神に。流れる星に。今宵の月に。
 ありがとうの言葉には、音にならない祈りを込める。
 いつまでも、君たちが輝きを失いませんように。
fin.
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 凛と鋭い輝きを内包する冬の月。
 その光は冷たくて、皮膚を切り裂いてしまうのではないかと恐怖していた。
 静かでしとやかなやさしさなのだと、知ることが出来たのは君たちが教えてくれたから。

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and after the party ... (過去が匂うので苦手な人は回避推奨)