■ かりん
土屋研究所におけるJのステータスは基本的に、雑用係のはずのアイドルである。
男ばかり、しかもむさくるしい中年男が中心に集まった研究所に、突如やってきた若くて綺麗な一輪の花。はじめは棘だらけの氷でできた花のようで戸惑うばかりだった所員たちも、周囲の子供たちと接するうちに解きほぐされ、ふんわりやさしい色を見せてくれるようになれば話は別だ。
就業時間中は資料をとってきたりデータの打ち込みをしたりと、細々した最底辺の面倒くさい仕事を一手に引き受けて助けてくれるJに、もともと子供好きな所員たちは、その他の面でもかまいたくて仕方ない。朝は登校時刻と出勤時刻がうまくかち合わないため出会えないから、彼らのJとのコミュニケーションは夕方、Jが学校から戻ってからスタートする。
「ただいま戻りました」
夏休みがあけて、近所のインターナショナルスクールに通いはじめたJは、帰宅すると必ず、土屋の書斎と研究室に顔を覗かせる習慣を持っていた。はじめは土屋への挨拶を目的に、どちらにいるかわからないからひょっこり覗き込むだけだったのが、所員の方から「おかえり」と声をかけたのをきっかけに、わざわざ言いにきてくれるようになったのだ。
入り口付近にいた人間も、部屋の一番奥にいた人間も。一様に振り向き、所員たちは研究所の最年少の仲間を笑顔で迎える。
「おかえり、今日はどうだった?」
「Jくん、うちの奥さんが作ったクッキーを持ってきたんだ。砂糖は控えめだし、博士に渡しておいたから、よければおやつにでも」
「そうだ、資料室に踏み台を作って置いといたよ。今日からはそっちを使って、足場の悪い回転椅子にはもう乗らないようにね」
「宿題とか、わからなかったらいつでも聞くんだよ」
あちらこちらから飛んでくる言葉に対していちいち頷いたり礼を述べたりして軽く時間をつぶすと、Jはくるりと踵を返して書斎を経由しながら自室に戻り、まずは宿題を片付ける。それから研究室で手の必要な所員を探しては手伝いを買って出て、豪たちが来れば彼らと遊んだりしながら夕方までの時間を過ごす。今日も今日とてそうなるはずが、予想外の音声に、ベクトルがあっという間に方向を変えた。
けほんと一つ、乾いた咳が聞こえたのだ。
ざわざわしながらうごめいていた所員たちは一気に視線を音源に集中させ、注目を浴びて微苦笑を浮かべる相手に、見舞いの集中砲火を浴びせかける。
「風邪かい?」
「もしかして、のどをやられた? 熱は大丈夫?」
「最近は寒暖差がひどかったからね。もう医者には行った?」
「今日は僕らの手伝いはいいから、あったかくしてもう休んだほうが良いよ」
「大丈夫です。ちょっと、喉がイガイガするだけですから」
「ダメだよ!」
咳ひとつでまるで重病人のような扱いを受け、Jは表情は変えないまま、小首をかしげて言葉を返す。しかし、それには室内にいた全員からの合唱が返されてしまった。
迫力のある反応にきょとと目を見開き、Jはそれから相好を崩した。
愛されているなあ、と実感する。
ここは自分の最初からの居場所ではなく、彼らにとって自分を大切にする義理などどこにもない。それなのに、こんなにも心を向けてもらっている。
そのあたたかさが、やさしさが。ありがたくてくすぐったくて、そしてなんだか申し訳ない。
あなた方に愛されるほど、ボクは良い人間ではないのに。
「どうしたんだい?」
外まで聞こえているよ、と、廊下の反対側からやってきたのは土屋で、研究室の入り口からJと並んで顔をみせる。
「Jくん、おかえり」
「ただいま帰りました」
足を止めてから穏やかな視線を向けて、土屋はJを迎え入れる。そして、改めて研究室を眺めやる。
「博士、Jくん風邪ひいてますよ」
「咳してたのに、なんでもないから、って言うんです」
「病院に連れて行った方がよくありませんか?」
次々と投げかけられる言葉に、土屋はそれまでと態度を一転させ、くるりとJに真剣な眼差しを向ける。
「それはいけないな。風邪は引きかけが肝心だ」
無理はしない。遠慮もしない。同じ屋根の下で暮らす以上、自分は君の家族になりたい。本物の君の家族にはかなわなくても、自分にとって君は、本当の息子同然だから。
ことあるごとに繰り返されるセリフが、土屋の瞳の奥に読み取れる。家族同然の扱いで、心配されているのがよくわかる。何か言葉を返さなくては、と口を開きかけたJは、眉をしかめて顔をそむけ、小さくひとつ咳をした。ほらね、と所員に笑い含みに言われ、言い逃れはできなくなる。
「ああ、でも博士。今日は病院、おやすみですよ」
「それじゃあ、とりあえず薬かな」
買い置きはあったかな、と思案する土屋は、ふと思い出した様子で「ハチミツがあったな」と呟く。
「ハチミツ?」
「喉がガラガラするんだろう? だったら、かりんを漬けたハチミツがいいんだ」
脈絡がわからず、Jが思わず復唱すれば、やさしい笑顔で土屋が請け負う。思い当たる節でもあったのか、所員たちもまた、納得した風情で頷きあっている。
「さあ、でもまずは手洗いとうがいだね。お湯にといて用意しておくから、それが終わって着替えたら、リビングまでおいで」
誕生日がもうすぐなんだから、風邪なんか引いたら大変だよ、というよくわからない理屈つきで背中を押されたJは、遠ざかる研究室から響く声に、思わず足を止めて振り返ってしまう。
「博士、それ本当ですか!?」
「なんでもっと早く言ってくれなかったんです!」
「プレゼント、どうしようかなあ」
「風邪をもう引かないように、マフラーとか?」
聞こえてきたのは、この上なくやさしい思い。こんなにもこんなにも、自分に向けられるあたたかな思いがある。
幸せだなあ、と痛感する。
自分の生まれてきたことを、祝してくれる人がいる。
そして、罪悪感に貫かれる。
この身は祝される命ではないと知っている、それでも祝福を嬉しく思う。
限りなく弱くて、ずるい自分がいる。
fin.
いがいがする喉に、やさしい甘さの風邪薬がやさしくしみる。
痛みを包み込み、やさしい安堵で包んでくれる。
微かに残る苦味はきっと、幸せすぎて後ろめたい、贅沢な悩みのせいだ。
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