■ 雪降る音に包まれて
関東平野においては実に珍しいことに、ぼたん雪ではなく粉雪が降った。朝、目を覚ましてカーテンを引いてみれば、既にそこにはいつもの灰色の地面ではなくて真っ白な地面が広がっていた。重い色合いで低く垂れ込める雲間から射す光はない。それでも、窓の向こうは薄っすらと世界全体で発光しているようだった。
今日は、Jを学校に送り出すよりも早く、土屋もまた親会社での会議に参加するため出かける必要があった。
戸締りをしっかりしてくれるよう一応の確認をして、いつもとは逆に見送られて玄関を後にしたのが午前七時ちょっとすぎ。
会議が終わって地元の駅が近くなって、授業は終わっているだろうが部活かもしれないと考えてメールを入れたのが午後三時二十七分。
返事がないということはやはり部活なのだろうと判断しながら改札をくぐったところで、心臓に悪い笑顔に遭遇したのが午後三時四十分頃。
珍しくいたずらっぽい、そう、まさにいたずらに成功したことを喜んでいる子供そのものの笑みを浮かべて改札前の柱に背を預けていたのは、いまだ学校にいると思っていたJだった。思わず立ち止まってしまい、通行の妨げとなって周囲から不機嫌そうな視線を投げつけられている土屋に少しだけ苦笑して、とことこと近寄ってきた。
「そんなに驚きましたか?」
「そりゃあ、もう」
だって君、いるんならいるで、返事をくれればよかったじゃないか。
思わず眉間にしわを寄せて反論すれば、それでは驚かせることができないだろうと、上目遣いに土屋を覗き込むJは、本当に楽しそうに笑い返してきた。
一緒に帰れると思って、と俯き加減に呟いてくれた子供は愛しいことこの上ない。断られることや咎められることを危惧していたらしい、わずかに下がった眉尻には、顔中をしわくちゃにした笑顔がよく効くことを土屋は知っている。
「待っていてくれたんだね。寒かったろう」
「そんなでもありませんよ」
「ありがとう」
やわらかな金糸をかき混ぜるように頭に手を置けば、ひんやりと冷え切った感触が伝わってきた。よく見れば、頬も耳も、外に露出しているそこかしこが赤くなっている。申し訳ないと思いつつも、紡ぐのは感謝の言葉。下がっていた眉尻のニュアンスが苦笑へとなり代わり、首を振ってフォローしてくれた子供の言葉には軽く相槌を打つに止め、伝えたい言葉を見失わないように気をつける。
それぞれに傘を開き、一歩踏み出してしまえば土屋からJの顔は見えない。大人びた表情や振る舞いからつい失念しがちだが、この子はまだまだ成長段階にある、小さな子供なのだと思い知らされる瞬間だ。
並んだJが左にいるならと、いつもは先に渡る横断歩道を後回しにして、土屋は自分が車道側になるように道を行く。駅前は人通りもそれなりにあるため、歩道の雪はほとんどが解けている。水分の染みこんだ黒い地面を何となしに眺めて歩きながら、交わす言葉は他愛のない内容だ。
沈黙がひたすらに怖かった時期は脱した。無理やり何かをやりとりしていないと消えてしまいそうな、そんな危うさはだいぶ払拭されたと、土屋は思う。互いに口数はそう多い方でもないし、いつもよりもずいぶん静かな印象のある住宅街に入る頃には、黙って並び歩くだけになっていた。
人通りの少なさに比例して地面は黒から白へと変わっており、足をとられないようにと気をつけるから、歩みはいつもよりもゆっくりだった。各家の玄関前に、大きさは違えどどこも同じようなふたつでワンセットの雪玉が転がっているのを見て、土屋はひそかに笑う。
ぼたん雪では感じることのできない、傘を叩く軽い音が聞こえる。さりさりと耳朶を打つ心地よい音に神経を傾けながら、土屋は黙々と足を進めていく。
さりさり、さりさり。しゃくしゃく、しゃくしゃく。
聞こえるのは二重奏。いつもの場所をいつもと違う感覚で歩く内に、片方のしゃくしゃく、がやんだ。足を止めて振り返れば、地面につま先を打ちつけ、靴底にまとわりついた雪片を律儀に叩き落とす姿が目に入る。
几帳面なんだなあ、と、妙なところで性格を垣間見た気がして感心する。と、同時に、その姿に少し思うところがあって、土屋は笑顔に煙る白い息を吐き出した。
「大丈夫かい?」
「はい」
神妙な顔つきで靴底の雪を落としていたJは、やわらかくかけられた声に顔を上げてすとんと頷いてみせた。だが、対する土屋はしょうがないなあ、といった風情の笑みを浮かべていて、自分の返答は筋違いだったろうかとJは少しだけ考え込む。
慎重に、それでもJよりよほど要領よく歩を進めてきた土屋は、立ち止まると腰を折り曲げた。目線を合わせるでなく、中途半端な位置まで下ろされた土屋の視線が動くのにあわせ、その大きな両手がJの体を軽くはたいていく。
「真っ白だよ」
笑いながら動かされる手によって、コートは本来の濃紺色を取り戻す。自分でやるからと、Jが慌てて身を引こうとすれば、土屋に笑顔のまま「いいから」と強く押し切られてしまった。
「気づいていなかったのかい?」
「いえ。そういうわけでは」
「じゃあ、考えごとかな?」
苦笑交じりの声は軽かったので、あっさり返して視線を泳がせれば、もう一度、今度は少しだけ重く問いただされる。かえって心配をさせてしまったらしいことを悟り、Jは溜め息をひとつついて素直に白状した。
雪がつくのは見えていたが、掃ってもどうせまたつくし、別にいいかと放っておいたのだ。
「それに、余計なことに神経をとられると、今度こそ本当に転びかねないと思ったので」
理由を告げ終え、決まりの悪さに口を引き結んだJは、作業を終えて腰を伸ばした土屋の顔をちらりと見上げた。案の定、そこにあるのは笑みをこらえている様子で、予想と違わなかったとはいえそれなりに自尊心に傷のついたJは、ますます情けなさを募らせる。
土屋の隣で転んだ経験はないが、実際にそんなことになれば、きっととんでもなく心配をさせてしまうだろう。それは申し訳ないし、何より情けなくて嫌だった。だから言いたくなかったし、知られたくなかったのに。
目を細めて、どこか不機嫌そうな様子のJを見ていた土屋は、紡ぎかけた言葉をすんでのところで飲み込む。今度こそ、ということは、きっと自分と合流するよりも前にどこかで転びかけたのだろう。この子がこれだけ苦々しい表情をするということは、かなりきわどかったと見ていいはずだ。だが、それを言葉にして確認してしまえば、はぐらかされはしないだろうが機嫌の急降下は避けられまい。
意思が強く実力があり、そしてその分プライドの高いJのことを知っているから、土屋はいたずらにその矜持を傷つけることは好まない。抑えきれない苦笑は見逃してもらうことにして、土屋はようやくの思いで表情を取り繕う。
「でも、放っておくのは良くないよ」
雪が降るということは、非常に冷え込んでいるということだ。そこに更に体を冷やす原因を作ってしまうのは見過ごせない。転んでびしょぬれになって、というのもいただけないが、コートから染みこんだ水分が原因で風邪など引かれたら、それこそ心配が過ぎてどうにかなってしまいそうだ。
真摯に見つめる土屋の視線に何を思ったか、Jはきゅっと眉を寄せて、それから素直に頷いた。
「今度からは、ちゃんと払うようにします」
「その方がいいと思うよ」
助言がすぐに受け入れられたことが嬉しくて、土屋は笑いながら前を向く。
「帰ったら、あったかいものでも飲んで、一息入れよう」
提案には、明るく軽やかな肯定の返事があった。そのまま並んで歩き出しながら、土屋は歩調を少し抑えることを意識する。
先ほどまでいくばくかずれていた足音の二重奏が、今度はぴたりと重なって、静かな空に溶けていった。
fin.
いつもより子供めいた表情を見せてくれることに、気分が高揚するのを止められない。
穏やかで他愛のない、ちょっと特別な雪の日の出来事。
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