■ 賢者の贈り物
ここ一週間ほど、ずっと落ちつきなく注がれる視線に耐えていたJは、資料を受け取った手をそのまま、何事かを言わんと口をもごつかせる土屋に、こっそり息を逃した。ようやく核心に迫ってくれるか、という推察は、落ち着きのなかった日常が終焉を迎えるだろう確信とともに安堵をもたらす。だが同時に、逃したものより体積は小さくとも密度の高い空気を吸い込んで、Jは覚悟を決める。土屋にしろ他の研究員にしろ星馬兄弟にしろ、まだ互いの存在領域は、物理的にしか重なっていないに等しいのだ。
何を言われてもされても、そこには精一杯の気遣いがある。よほど露骨な悪意を感じないかぎり、いかに不思議に思っても、それを理由に彼らを恐れたり彼らに警戒を向けるべきではない。彼らに向けられたものを、自分の身にせよ彼らの身にせよ、傷や痛みの原因にしてはいけない。
改めて意識しなくてはその振る舞いをこなせない我が身を、情けなく腑甲斐なく、そして悲しく思い、それだけでかなり疲弊する、しかし絶対に譲れない覚悟。それは、Jが意志を殺して人形たることを完全に捨てようと決意した際に、代わりに課した絶対のルールだった。
「Jくん、少し聞きたいことがあるんだが」
「なんですか?」
土屋が資料を掴む握力は弱い。ここでJが手を離せば、きっと床は黒と白で彩られるだろう。
紙の束を挟んでの対峙は、考え込んでいたからのものなのか、それともJを逃がさないための土屋の作戦なのか。おそらくは双方共に当てはまり、ある意味当てはまらないという半端な状態が答えなんだろうなぁ、などとのんきに考えながら、Jは視神経の集中先を手元から穏やかな黒目へと移す。
「何か、欲しいものはないかな?」
「……欲しいもの、ですか?」
予定はなかったはずだが、買い物前の質問にしては、どこか不自然な一言だった。常の土屋なら、「何か欲しいものはあるかい?」と問うてくるところだ。
もっとも、劇を演じているわけでもなし。言葉遣いの多少の違和感にけちをつけるのもどうかと、Jは瞬きを一つ挟んでからゆるりと首を振った。
「特に足りないものはありません」
小さくなってしまっていたものを器用に使っていたところを土屋に目撃され、新しい消しゴムのストックは過剰なほどある。歯ブラシはこの前取り替えたし、他にこれといって思い当たるものはなかった。
「いや、まあ、そういうのも足りなかったらもちろん、言ってほしいんだけど」
今はそういうことを聞いているのではないと、土屋は苦みの交じった笑みを浮かべて、Jの手からようやく書類を取り上げた。土屋は何か言葉に詰まると、必ず手元に落ち着きがなくなる。とんとんと、無意味に書類の角を机に打ち付けてそろえながら、その視線は左手の辺りを中心に、くるくる円を描く。
たん、と。ことさらゆっくり短辺をそろえ、土屋はようやく紙の束を机に置いた。
「ぎりぎりになってしまったけどね。私にはどうしても、いい考えが浮かばないんだ」
「何のですか?」
Jの知るかぎり会議の予定はしばらくなかったし、研究員の誰かが仕事に行き詰まっている様子もなかった。急いで何かアイディアを捻りだす状況ではなかったはず。皆目見当のつかないJは、小首を傾げて思ったままの疑問を返す。
「何か急ぎの仕事でもできたんですか?」
「いやいや、そういうのじゃないよ」
仕事の進行状況はいたって良好だ。使いやすく整頓された資料室と、きちんと分類された器具類やら試薬たち。どうやら片付ける際に自分で混乱するのを防ぐためにJが作ったらしい一覧ノートは、仕舞い忘れているのを研究員が見かけて以来、あっという間に複写されて、各部屋に一冊ずつ常備されるようになった。
「やっぱり、どこに何が置いてあるかわかっているほうが、効率がいいからね」
君のおかげだよ、と。土屋は感謝を向けるのを忘れない。自己愛の本能にどうしても逆らいがちな子供には、過剰なくらいの肯定の言葉と行動と思いとが必要だろうから。無論、そんな小難しい考えを抜きにしても純粋に沸き上がる感謝を込めて、土屋は笑った。
「ああ、話がそれたね。ええと、クリスマスプレゼントを用意したいんだ」
ふわりと、二人でほんわかした笑みを交し合い、なんとなく和やかな空気が流れる中、土屋は思い出したように続ける。少しだけ視線はJから外れて、左上空をちらちらと見やるのは、土屋が照れている証拠だ。言われた言葉の意味を思い、やけに照れくさそうな土屋のふりまく雰囲気を吸い込み。Jは瞬きをひとつはさむと、伝染した照れくささになんとなく歯がゆくなって、視線を思わず土屋から外してうろうろとさまよわせた。
「誕生日のときは私が勝手に考えたけど、今度は、君が欲しいと思うものをあげたいなあ、と思ってね」
いつまでもそんな空気に浸っていては進展がないことに気づいたのか、土屋は慌て気味に言葉を継ぎ足した。
「君を見ていて、それで何が欲しいのかを察せれば格好がついたんだろうけど、あいにく、私はそこまで鋭くないから」
はははっ、と乾いた笑みをこぼしてから、土屋は大きく息を吸い込み、改めてJに向き直った。
じっとまっすぐ注がれる視線に応え、Jは目元に集中する熱を意識しながらも視線を返す。穏やかな瞳はどこか落ちつかなげな色を湛えていて、土屋がどうやらJの答を非常に楽しみに待っているらしいことをストレートに物語る。
何もない。そう答えるのがセオリーだろうとも、それこそが本心だともJは思う。
物理的にも精神的にも、いまの生活は満ち足りている。注がれる思いを受け止めきることができずに溢れさせているというのに、これ以上望むことはない。戸惑い、躊躇う自分を見て悲しそうな顔をさせてしまうことを知っているから、いまよりもたくさんのものを受け取るには、もう少し時間が欲しいというのが本当のところだ。だが、土屋はその答に満足しないだろう。矛盾する本心と推察との間で、Jは妥協案を探って思考を巡らせる。
「遠慮はいらないからね。私は、君に甘えてもらえる方が嬉しいんだ」
「ありがとうございます」
やわらかくかけられた声ににこりと応じながら返すのは、礼の言葉。反射的に謝罪の言葉を入れられては悲しいし辛いのだと、叱られたのは土屋に引き取られてしばらくしてのことだった。習慣として染み付いた反応はなかなか直らないが、今回はうまくいったと、Jは満足から口の端が持ち上がるのを感じる。しかし、すぐさまその表情は困ったようなはにかみへと変わった。
「でも、特に何も、思いつかないんです」
素直な返答に、土屋が表情を曇らせるだろうことは簡単に予測がついた。それでも、下手な嘘をつくよりはいいだろうと、Jは息を吸い込んでから静かに返す。
案の定悲しそうに眉を潜めて口を開こうとした土屋に、Jは申し訳ない気持ちに包まれる。だが、これでも少しは成長したと自認しているのだ。こんな程度では終わらない。土屋を悲しませて終わるのではなく、続けるべき言葉をJは知っている。
「だから、博士が選んでください」
「え?」
続けられたひと言に、土屋は思わず問いを返していた。どういうことかと考え込んでいる様子に、Jは笑いながら説明を加える。
「ボクにとっては、博士からもらえるということにこそ意味があるのであって、中身の違いはないようなものです」
相手の気持ちが自分に向けられたことを具象化するもの。それが贈り物なのであり、だからこそ、願って得るものよりも中身を知らずに受け取る方が嬉しい。つい先日の自分への数々の贈り物を思い起こしながらそう断言すれば、土屋は勢いに呑まれたように瞬きを繰り返し、そうかな、と確認口調で呟いた。
「博士が選んでくださったものが欲しいです。それが、ボクの欲しいものです」
「うーん、君がそう言うなら、もう少し頑張って悩んでみるよ」
「お願いします」
駄目押しに笑顔を乗せれば、土屋はひとつ息をついてから仕方ないな、と微笑んだ。
申し出が受け入れられたことが嬉しくてかけねなしの笑みを送り、Jは話題を切り替える。持って来た書類の中身を確認してもらい、書類を届けてくれとそもそも頼まれていた所員からの言伝を届ける。それに対する返答をもらい、復唱して確認してからJは一礼を残して廊下へと滑り出た。
視線が遠慮なく背中に突き刺さるのはくすぐったかったが、これもまた幸せの一部なのだと思えば自然と頬が緩む。欲しいものが思いつかないから、選んで欲しい。その願いを聞いた土屋の表情は「それは願いではないと思う」と雄弁に語っていたが、それこそが最上級のわがままであるとJは知っている。
私を見るたびに、私の声を聞くたびに、私の存在を感じるたびに。
あなたは私を思い、私のためにその思考を割くでしょう。
何にも変えがたいものを、私はあなたから奪い続けます。
あなたの時間を私にください。
その結末にある以上のものを、私は何も知らないのですから。
fin.
許容されることを知っているからこそ、恐れることなく願いを口にする。
やがて来る瞬間もこの瞬間も、すべてが満たされている。
早く気づいてくださいと、願う子供がそれを告げないのは、やはり幸せなわがままの形。
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