■ クリムゾン・カタストロフィ
 座るように、と促したらば、Jはいつもの見舞いのときと変わらない様子でベッドサイドに椅子を運んできた。ゆるりと流れるその挙動の一つ一つは穏やかでよどみなく、うっかり誤魔化されそうになる。目の前にたたずむのは、獰猛な金の獣をその内に飼い馴らす存在だということを。
「レース、見てたよ」
 腰を落ち着けるのを待たずに、烈は口を開いた。
 本当は、見ていただけではなくて、直後に飛んできた弾丸小僧からありとあらゆる単語を聞かされている。まとまった情報とはいえない、感性に任せた支離滅裂な言葉の塊。しかし、それゆえに嘘偽りのない、Jの友人として、仲間としてのフィルターを通した、確実な情報の塊。
 言葉を聞きとめた瞬間、わずかに動きを強張らせたものの、流れに淀みはできなかった。いつもと同じように椅子に腰を落ち着け、すいと目線を上げて一言。
「知ってるよ」
 いつもと何ら変わりのない、落ち着いていて穏やかで、聞くものの心にそっと染み入る声音だった。


「入院してるからって、仕事を放り出すような人じゃないもんね」
 だから、無理をしないでほしいのに無理をしていそうで、こちらとしてはハラハラしているのだと、Jは仄かな苦笑を浮かべてみせた。
「落ち着かないんだよ」
「知ってる」
 軽く肩をすくめた烈にすんなりと応じ、Jはもともとぴんと伸びていた背筋に、さらに力を込めたようだった。
「きっとそれなりに情報は行っているだろうけど、直接説明したほうがいいと思ってね」
 あいまいにぼかされた焦点。それとは示されない主旨。わかっていながらあえてそこに視点を合わせないのは、双方に共通する前提とみなしているからなのか、他の思惑があるのか。
 それでも、声の調子はちっとも変わらなくて、いつもの世間話と同じ空気を纏っていた。
「事務的な方面から行こうか。まずは公式な処分だけど」
 一呼吸。
「特になし。GP チップの暴走ということで片付いたみたい。細かい話は教えてもらえなかったから、知りたかったら博士かカイあたりに直接聞いてみて」
 緊張し、無意識の内に身構えていた烈は、淡々としたJの表情にわずかに目を見開いた。
「確認と調査のために、ってことでいまはマシンごと本部に持っていかれてる。今日中には返してもらえるらしいんだけどね」
 烈の表情の変化に気づかないJではない。しかし、一向に気にした風もなく、そのままぽんぽんと話を進めていく。
「このままいくと、烈くんの復帰第一戦は四位決定戦になると思う。相手はシルバーフォックスと、あと、光蠍がくるかな」
 もっとも、どこが相手でも負ける気はないけどね。
 くいと持ち上げられた口の端に、厭味な空気は微塵も滲んでいなかった。


 話に区切りがついたのか、Jはそこでひとつ、ふうと息をついた。音にせず質問の有無を問う視線を向けられ、烈は躊躇しながらも切り込むことを決意する。チームメイトとして、リーダーと参謀という関係として、友人として、因果として。見ないふりをして通り過ぎることはできなかった。
「僕は、レイくんが噛んでいるって聞いたんだけど」
 説明に要領を得なかった豪の話だけではわからなかった事実の一端。シャークシステムの存在。その開発者。そして、それをJに託すことのできる関係性。
 忙しい合間を縫ってやはり説明に来てくれていた土屋とカイから、あらましは聞いていた。それでも、どうしても本人の口から聞きたかった。
「アーキタイプは大神博士のものだよ。完成させたのがレイだね。もっとも、システムにバグが残っていたから半端なところで止まったし、性質の変化も見られたけど」
 Jは、否定や肯定、あるいは弁明どころか、説明すらしなかった。きっかけが見えず、ただ結果だけが存在感を主張する。予想外の方向に話を続けられ、逆に烈は口を噤まざるをえなかった。大神という存在と、そこにまつわる人物の相関関係が、烈にはいまだよく理解できない。そして、その名を出すことで、Jに対して与えるだろう影響も。
 次に選ぶべき単語が見つからない、気まずい沈黙が胸にわだかまる。
「烈くんには、謝らないよ」
 思わずうつむいて手元を見つめていた烈は、鼓膜の振動にはっと目を上げ、音源へと首を巡らす。横たわった沈黙に、波紋を投げかける一言だった。それまでと同じ声音で、口調で、テンポで。Jはさらりと言葉を綴る。
「今回の一件は、明らかにボク個人の暴走だ。カイやクレモンティーヌ、サバンナソルジャーズのみんなには謝った。勝手な言い分だってわかってる。だから、それで許してもらえるとは思えないけど、精一杯の誠意を伝えたつもりだよ」
 Jが訪れたときには青かった空がいつのまにか、茜色に染まっていた。室内は薄暗さに彩られ、感じた以上に時間が流れていることを烈は知る。
「豪くんたちにも、迷惑かけちゃったから、謝った。許してくれたって、思ってるけどね。でも、謝るべきだったし、許されるべきじゃないってわかってるから、謝った」
 でもね、と、Jはそれまで逸らさず烈に固定させていた視線をはじめてベッドのシーツに落とした。
「ボクのせいでチーム全体に影響が及んで、その波及は烈くんにも行くだろうから、その時は謝ろうと思う。でも、いまは謝らないよ」
 最後の一言は、まっすぐに射抜く鋭い蒼の視線と共に、烈を貫いた。常は穏やかで和やかな笑みを浮かべる双眸が、厳しく硬質な光を弾いている。出会ったばかりの頃を思わせる、強くも危うい獣の瞳。
「君と今回の一件に、因果関係は何もない。自分を見失って、制御ができなくなったボクが原因であり、それによって導かれた結果なんだ」
 それは宣告だった。少なくとも、烈にはそう感じられた。
 責める分にもなじる分にも、あるいは蔑むにしてもこれを機に彼との関係性を断ち切るという選択があったとしても、Jはきっと烈に非があるとは感じないだろう。その原因は己にあり、結果を導くきっかけは、すべて己にしかなかったと、そう判じるだろう。
 だが、その矛先がわずかにでも彼以外の場所に向いた場合、彼は牙を剥くだろう。どんな形でか、は、わからない。ただ、もし仮に今回の件の責任は自分の欠場だから、などと口にしたとたん、彼は二度と自分に心を向けてくれることはなくなるだろうと、漠然と感じたのだ。


 西日がよく射す部屋だった。窓に向かって座っているJは、陽光を全身に浴びている。
 両手に巻かれた包帯は真っ白なカンバス。そこに描かれるのは茜色の芸術。
 部屋に置かれたすべてのものに、薄い朱色の液体をぶちまけたかのような光景だった。
「僕は、頼りにならない?」
「そういう意味じゃないよ」
 ようやく選び取った言葉に、Jはふわりと微笑んだ。
「でもね、烈くんは誰かを守れるほど強くもないし、ボクは誰かに守ってもらわなきゃならないほど弱くもない」
 お互い、いい意味でね。あっさりと言い放つ瞳の奥には、巧妙に隠された細く鋭い光。
「次も、勝つよ」
 すうっと細められた双眸に、烈は思わず背筋が凍るのを感じる。
 凶悪なまでのあの牙は、もうなくなったのだと思っていた。あれは作られ、与えられた牙であり、彼の本質とは異なると思っていた。
 それが、どうだ。
 目の前にいるのは、牙と爪とを隠した獣。力に翻弄され、力を制し、力を識る獣。
 垣間見えた片鱗に、烈は眩暈を覚える。彼はそれを巧妙に隠し、協調を織り成すために折り合いをつけてくれるだろう。それでも、本質は譲らない。彼を支えるのは、根本的に烈とは違う価値観。彼はそれを認めた上で、すべてを否定するのでなく、すべてを受け入れることで足掻き、進み続ける。
「うん」
 同意は弱々しい声音だった。突きつけられた言葉に、思いに、強さに。呑まれ、圧倒され、息が詰まる。
 本当は、自分こそが強くあって、傷つき立ち直れずにいるだろう彼を癒してあげようと思っていた。なのに、彼は立っている。流れた血を悲しむことはあっても、うずくまることはあっても、最後は一人で立ち、前を見据えて顔を上げている。
 印象に残っているのは、紫の車体が深く暗い緋色に染まっていること。悲劇だったのか、狂気だったのかがわからない。突きつけられた当事者の静けさに、脳裏をよぎるイメージはやはりあの色。
 沸き起こる困惑や得体の知れぬ恐怖以上に、烈は悲しみに暮れる自分をぼんやりと悟る。伸ばした手のやり場に困り、力なく腕を落とすような無力感にさいなまされる。
 きっと、敏いJは烈の纏う空気の変質に気づいただろう。しかし、彼は何も言わなかった。その無言すらも、すべてはいつもと同じだった。そして、前回とも前々回とも変わらない様子で椅子を片付けた。
 夕陽によって全身を真っ赤に染め上げられた手負いの獣は、見舞いと辞去の言葉にそれは艶やかな笑みを乗せて、いつもと同じように部屋を去っていった。
fin.
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 粉々に、それは砕かれたのではなく君が砕いた。
 朱に染む。紅に染む。君の全身が赤銅色に染む。
 血潮を浴びたかのような姿に染まり、君は僕を打ち砕いた。

 クリムゾン --- 深紅色。深い紫がかった紅色。
 カタストロフィ --- 大変動、変革。悲劇的な結末。

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