お誕生日当日。午後三時半現在。
■ 無音の祝詞を紡ぐとき
まるで役立たないばかりでなく非常に邪魔なことこの上ない弟に、烈のこめかみの血管は限界を迎えようとしていた。ぶるぶると小刻みに震える両手には力が篭もり、目の前に並ぶ色とりどりのチョコスプレーたちが溶け出してしまいそうな形相が浮かぶ。少しでも気を抜けば、腕の中のボウルと泡だて器がどこかに飛んでいってしまいそうだ。
ここで自分まで騒いでは収拾がつかなくなる、との分別が必死に抑えつけていた堪忍袋の緒は、しかし。せっかく泡立て終わったホイップクリームのボウルに無遠慮にのばされた豪の指先によって、あっさりと引きちぎられる。
「いい加減にしろっ! 手伝わないんなら出てけーっ!!」
堪えに堪えていた爆発は、大音声の怒鳴り声と情け容赦ない拳骨のクリーンヒットに鮮やかに彩られた。
いつものごとく開始のゴングが鳴り響いた兄弟喧嘩に巻き込ませてはならないと、二郎丸は烈の腕の中から実にさりげなくボウルを取り上げる。そのまますぐ脇で作業をしていた兄のもとまで避難すると、呆れ果てたじと目を横に流し、大袈裟な溜め息をひとつ。
「どーしてこうなるんだすか?」
「いつものことだろう」
やけに老成した弟の声にちらりと視線を上げてから、リョウは淡い苦笑を滲ませながらあっさりと応じると、再び手元の包丁に神経を引き戻した。
「二郎丸、冷蔵庫からさっきの果物を出しておいてくれ」
「はいだす」
慎重に刃を沿わせるのは、やわらかく焼きあがった黄金色のスポンジ生地だ。丁寧に三層に切り分けると、避難させられてきたボウルからクリームを取り、表面に塗りつけていく。あらかじめ切り分けておいたフルーツを散らし、クリームを上乗せしてからスポンジを乗せ、次の段も同じように埋めていく。
「おいしそうだすなあ」
「スポンジもうまく焼けたし、味は保証するぞ」
鮮やかな手つきをじっと見学しながらこぼされた感嘆の吐息に、リョウはやんわりと微笑んだ。
一番上の段のスポンジを乗せ終わると、次は周囲のデコレーションだ。ちょうどいい道具がなくてゴムベラで代用しているとはまるで思えない見事な手腕により、ケーキは華やかに彩られていく。
「豪くん、料理をしないんなら、こっちを手伝うでげすよ!」
と、鷹羽兄弟の背後で響いていた怒鳴り声の応酬を遮る一声があった。呆れたような声の主は、食堂で彦佐と共に動いていたはずの藤吉である。
「えーっ、そっちめんどくせー!」
キッチンの方がおいしいおこぼれにあずかれるのに、と。実に都合のいい不満を隠さずに頬を膨らませた豪の後頭部には、本日二度目の怒りの鉄拳が炸裂していた。
「さぼるだけじゃなくて、つまみ食いする気なのかよっ!?」
「烈くんも、手が空いているなら部屋の飾り付けを手伝ってほしいでげす」
すわ第二ラウンド開始かと思われた星馬兄弟に、そろそろ止めに入るべきかと首を巡らせたリョウの視線の先では、豪の首根っこを捕まえたお坊ちゃまがすかさず烈の言葉を遮っていた。頼まれれば嫌と言えない性格である上、そのまま藤吉の示した腕時計に表情を変えた烈は、慌てたようにリョウを振り仰ぐ。
「リョウくん、こっち任せちゃっていいかな?」
「二郎丸と二人で十分だ」
じっと静かにやりとりを観察していたリョウが鷹揚に頷けば、その横の二郎丸も同じように首を縦に振っている。
「料理はおらたちに任せるだすよ」
「じゃあ、お願いするね」
そもそも、実力派の料理人が二人そろっているのだ。主に皮むきやら材料を切り刻むやらの雑務の手伝いしかしていなかった烈の手は、仕上げ段階に入ったいまでは必要ない。力強く請け負ってくれた二人に礼を述べると、烈は藤吉と共にぐずる弟の首筋を掴んで廊下を行く。
元は全員で料理を始めたはずが、徐々に落伍者が出て、結局キッチンの人口密度は半減した。動きやすくなったその空間でリョウは再びケーキに向き直り、二郎丸はそもそも担当していたポテトサラダの続きへと戻る。
よく考えれば、はじめから料理を二人で担当して、豪の監視を烈に頼んでおいた方が効率がよかったのかもしれない。もっとも、大切な友人のために自分たちの手でおいしいものを作りたいという気持ちは全員本物だったのだ。ならばそんな野暮なことは考えまいと、リョウは一人小さくほくそえみながら、黙々と作業の手を進める。
「あんちゃん、こっちはもうすぐ終わるだすよ?」
「そしたら、鶏肉の下味を頼む」
味付けはわかっているな、と一応の確認を取れば、「任せるだす」と力強く胸を叩くさまが視界の隅に映った。パタパタと移動しながらリョウの手元を覗き込み、会心の出来へと着実に突き進むデコレーションに目を輝かせる二郎丸の手つきは軽い。
最後に果物とチョコスプレーで色とりどりに飾り立て、満足いく出来となったケーキは冷蔵庫の中へ。さらに追加の品に取り掛かりながら、リョウは廊下の向こうから響く声を聞く。わいわいと楽しそうに騒ぎながらの飾りつけも順調なようだ。ちらと目を上げた先にある時計は、タイムリミットまであと一時間を切ったことを知らせる。
「リョウくん! こっち終わったから、もう運んでいいものがあったら持って行くんだけど。どうかな?」
「あ、そこのボウル、クリーム余ってんのか? 食っていい?」
「……意地汚いやつだす」
「豪くん、ここでお腹いっぱいになって、あとでご馳走が食べられなくても知らないでげすよ?」
にぎやかに、着実に、パーティーの準備は進んでいく。
既にボウルを抱え込んで指先でクリームを舐め取っている豪の後頭部をはたく烈にリョウが取り皿とコップを運んでくれるよう頼み、手持ち無沙汰な藤吉は、無難なところで洗い物の手伝いを申し出る。さらにキッチンの入り口に顔を見せたのは、仕事に一区切りつけたらしい所員たちだ。
「お、やってるね」
「これ、うちの奥さんがパイを焼いてくれたんだよ。追加で入れてくれないかな?」
「食堂のおばさんたちが、主食はそろそろ仕上がるって言ってたよ」
一様に楽しげな笑みを浮かべた彼らは、口々にパーティー準備の労いを述べてくれる。
それぞれが喜びと祝福の思いを溢れさせながら、次々に場を飾り立てていく。
「どうかしたの、リョウくん?」
知らず内心の思いが表情に出ていたらしく、顔を覗き込みながら不思議そうに問うてきた烈に、リョウは一旦目を見開いてからくしゃりと破顔する。
「あいつ、これ見たらきっとなにより喜ぶんだろうと思ってな」
パーティーも嬉しいしご馳走もプレゼントも嬉しいだろうけれど、きっと彼は、この場を見たらば最上級の笑みを見せてくれるだろう。思いを向けられることの喜びとそのことへの感謝を、誰よりも知っているのは彼だから。だから、余計に思う。今日、この良き日に彼の目に触れるものが、口に入るものが、すべて自分たちの思いでいっぱいに満たされているべきなのだと。
手を止めて場を見渡せば、さもありなんと頷く顔が笑みを返してくれる。
「でも、見せてあげないけどね」
「準備段階で満足されてしまったら、こっちの面目が立たないでげすよ」
「まったくだ」
いたずらっぽい笑みで烈が応じれば、困ったような表情を取り繕った藤吉が喜色に満ちた溜め息をこぼす。くすくすと漏れる笑いに耐えながら、リョウは豪と生クリームの争奪戦に興じている二郎丸の代わりに、唐揚げの準備を続けるべく鍋を取り出す。
「じゃあ、もうひと頑張りしちゃおうか」
ひとしきり笑いあってから空気を締めるように打ち鳴らされた烈の両手を合図に、パーティーの準備がにぎやかに進んでいく。
主役の帰還を待ちわびて、幸せな気持ちが高揚していく。
それは、彼の喜びのための、彼らの喜びの時間。
fin.
ばれているのは知っている。でも、知らないふりをするのも暗黙の了解。
彼の幸せのために時間を費やすことが、純粋に彼らの幸せに繋がっている。
得がたく貴重で、かけがえのない、それが彼らのやさしい、当たり前の関係性。
timetable / event trace