お誕生日当日。午前七時現在。
■ 暁闇の明けた朝
寒くて少しだけ、布団の中のぬくもりが名残惜しくて、ついうっかり起き出すのが遅れてしまった。とはいえ、朝はまだ早く、これから朝食の準備をしても十分間に合う。昨晩のシチューの残りを温めなおして、パンを焼いてサラダを作ってコーヒーを煎れよう。そんなことをぼんやり考えながらキッチンに立てば、程なくキッチン脇の廊下にうごめく気配があった。
おはようございます。ああ、おはよう。今日も冷えるね。そうですね。
察して首を巡らせ、普段よりほんのわずかに遅くても、でもいつもの型通りの挨拶を交わして型通りの日常に足を踏み込みかけたJは、楽しそうに浮ついた土屋の声につまずいて、少しだけたたらを踏んだ。
お誕生日、おめでとう。
にっこりにこにこ、本当にこの上なく嬉しそうに、土屋は年に一度の特別な日常を告げる。
おめでとう。今日までの一年が、無事に過ぎて良かったね。君にとって、いい一年だったかい?
瞬きをして、思い出すまでもなく把握している日付を改めて胸の内に確認し、Jは頬が緩むに任せた笑みを伴う礼の言葉を返した。
笑顔を返そう、と無駄に力を入れている表情よりも、内側から沸き起こる色々な表情のほうが周りに喜んでもらえるとわかったから。表情を作られてしまうと、距離を感じて淋しいと、ぽつりとこぼされたことがあったから。だから、少なくとも土屋の前では、いかな表情であれ、なるべく作らないことにしている。
思ったことを、思ったままに。すべてとはいわないもののかなりの部分を曝け出すのは、絶大なる信頼の証だ。
鏡がないからよくわからないが、土屋の笑顔をさらにしわくちゃにするだけの表情は返せていたらしい。小さな充足感を得ながら、Jは続け様に、問いの答を紡ぐ。
いろいろありました。楽しくて密度が高くて、あっという間に過ぎ去ってしまったように感じます。
その言葉は土屋を喜ばせる類のものだったらしく、うんうんそうか、と楽しげに相槌を打たれ、Jもまた、なんだか楽しくなってきた。幸先の良い一日の始まり方だ。
土屋の誕生日の祝い方は少しだけ変わっていると、Jは思う。おめでとうの言葉なら、今日はこの後山のように浴びせかけられるだろう。でもきっと、誰も過ぎた昨日までの一歳だけ幼いJについては言及しない。今日からの一歳重ねたJについてのみ、触れるだろう。その点では、未来も現在も過去も、すべてを見渡す視点に立った祝い方をする土屋は、異色だった。
君に一番はじめにおめでとうと言うことができるのは、私の特権だね。
すぐに朝食を作ってしまうから待っていて欲しいと頼めば、穏やかに微笑みながら食卓の椅子を引き、土屋はどうやら取り込んできたらしい朝刊を広げる。そして、やはり楽しそうにJに告げた。
今日の一日がこんなにも楽しく始まったのは、博士のその特権のおかげですから、ボクも役得ですね。
鍋底にシチューが焦げ付いて、うっかりブラウンシチューにしてしまわないよう気を配りながらJが軽口を返せば、土屋は本当に楽しそうに軽やかに笑った。去年のいまごろからはあまり想像できない互いの距離を、Jはその声に確信し、そしてやはり笑い声をあげる。
キッチンでくるくると動き回り、あっという間に出来上がった食事はさっさと食卓へ。頃合を見計らって手伝いに立ってくれる土屋はいつもどおりで、二人で運べば食卓とキッチンとは二往復で十分だ。
一晩寝かせてコクの増しただろうシチューの香りが鼻腔をくすぐり、土屋の瞳が眇められる。いただきますの声をそろえてから図らずも同時にスプーンを取った土屋に、Jはふと、思い出したことを告げる。
今日は、実は先生方の研修会だとかで、授業が終わるのが早いんです。
おや、と。返された言葉はひと言だったが、上げられた双眸が困惑に揺れていた。ほとんど歯応えなく口の中で崩れるジャガイモを飲み込んで、Jは言うのが遅くなって申し訳ないと小さく謝罪を添える。
いや、それはいいんだよ。別にね。でも、そうだなあ。
歯切れ悪く言葉を濁しかけた土屋の危惧している内容は、Jにはお見通しだ。うぬぼれるわけでなく、ただ知っている。友人たちが、今日という日を素通りするわけがないという喜ばしい事実を。
部活があるのでそちらで多少時間は潰します。でも、それもたぶん、みんなの想定より早く終わると思うんです。
あっさりJが続ければ、土屋は知っていたのかと苦笑と誇らしそうな笑みの中間の色合いを見せ、やはりあっさりと受け流した。
そうだね。私も、君が学校が終わった頃に、実は電話を入れて買い物を頼む予定だったんだよ。
続けられたのはタネ明かし。それは去年と同じ手法だろう、という思いがどうやら表面に滲んでいたらしく、土屋の表情に苦笑の率が高くなる。
買い物もいいんですけど、様子を見て、帰ってよさそうな頃にもまた連絡をお願いしていいですか?
寒い外を歩くのは、嫌いでもないが得意でもない。あまり長時間ぶらぶらしていて、うっかり風邪の菌を拾うのも賢くないだろう。上目遣いに頼み込めば、土屋は笑って請け合ってくれる。
うん。じゃあ、そうしようか。なるべくあったかいところで時間を潰すようにね。
わかりました。お願いします。
こっそりこんなところで、友人たちが作り上げた極秘の、さらに裏の取り決めを交わし、Jと土屋は思わず笑い合う。
いつもどおりに朝食を終え、食器を片付けていたJは一旦リビングから消えた土屋が、いそいそと戻ってくるのを視界の隅に捉える。
はい、これ。プレゼントだよ。
ありがとうございます。開けてもいいですか?
もちろん。
手を拭いて振り返れば、ソファのところでにこにこと待っている土屋の姿がある。手にしているのは、ラッピングの施された箱だ。
受け取って、腰を下ろして、開けてみればメッセージカードとアイピロウ。
いつも手伝わせちゃっているからね。
意外なものを目にした気がして思わず箱の裏の説明書きを読んでいるJの隣から、苦味の混じる土屋の声が降ってくる。照れ隠しに視線をさまよわせているのを知っているから、実はこっそりメッセージカードに視点を切り換えて、嬉しくて照れくさくて、顔が上気しているのはばれていないといいな、と他愛のないことを考える。
ありがとうございます。活用させてもらいますね。
あまり、活躍させないようにしてもらうのが一番なんだろうけどね。
ちょっとだけ情けなさそうに笑って、土屋は時計に視線をやり、そろそろ学校に行く準備をしなさいと促す。
あとで、また別のも用意してあるからね。
そんなにたくさん。すみません。
違うだろう?
立ち上がった背中にかけられた言葉に、思わず申し訳なくなって謝罪の文句を紡げば、やわらかくも真面目な声が追いかけてくる。まっすぐ絡んだ目線は真剣で、Jは、言葉選びを間違えたことを知る。
……ありがとうございます。
うん。今日は特別な日だからね。
きちんと言い直せば、土屋はふわりと笑みを送ってくれた。そして、本当にそろそろ、とJを急かし、自分は手元の新聞へと注意を逸らす。
出かける間際に挨拶のためJがリビングに顔を覗かせれば、そのまま玄関まで送ってくれるのが土屋の毎朝だ。ゴミ出しの日は、そのままゴミ捨て場まで行っている。今日はなにもないから、見送りは玄関まで。それは、昨日とも明日とも、なんの変わりもない日常の姿。
じゃあ、行ってきます。
いってらっしゃい。気をつけてね。
はい。あ、連絡、お願いしますね。
わかっているよ。
玄関で他愛のない会話を交わし、Jは冷たい風の中に足を踏み出す。門を出る手前で振り返れば、土屋が小さく手を振ってくれるから、ちょこんと会釈を返して敷地の外へ。
小走りに道を行く己の吐き出した息が作る小さな雲には、いったいどれほどの喜びが籠もっているだろう。溜め息をつくと幸せが逃げるというけれど、今日は吐息に幸せを詰め込んで、世界中にばら撒いてやるのだ。
はっ、と気合の呼気を逃して、Jは胸の中で出掛けの最後に聞いた祝辞を反芻する。
お誕生日おめでとう。今日から始まる一年が、君にとって、幸せで有意義で、実り多いものになることを祈っているよ。
この日常が続く限り、あなたが祈ってくれるそれは、永遠に保証されたあなたからの幸せで贅沢な贈り物。
fin.
穏やかに、いつものごとく、でも特別に。
過ごす時間のあたたかさと大切さを再認識して、彼らはまた一年を刻む。
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