■ ラピス・ラズリの色の海
なぜだか去ってしまった眠気に、土屋はベッドの中で横たわったまま、瞬きを繰り返した。加齢を感じる瞬間は、日々の端々に転がっている。中でも、睡眠に関するものが一番多い気がする。昔はこんな風に、夜中にふと目を覚ますことなどめったになかったのに。
溜め息をひとつつき、枕もとの目覚まし時計に手を伸ばす。蛍光塗料の塗ってある文字盤の数字とちくたくと動く針は、目を凝らせば暗がりの中でも何とか読み取ることができた。示されている時間は、午前三時ちょっと過ぎ。起き出すには早すぎる。
無理に意識したところで眠気が蘇るわけもなく、かといってこのままだらだらと時間を過ごす気にもなれない。なにか少しだけ、身体を温めるようなものを飲もう。物理的に内側から温めてしまえば、きっと落ち着いて、再び睡魔が戻ってきてくれるだろうから。
決めてしまえば話は早く、土屋はそっと床に足を下ろした。
部屋も廊下も真っ暗だったが、どうしてだかリビングへと続く扉の向こうは薄明るかった。カーテンを閉め忘れでもしたのかと小首を傾げるものの、そんなことはなかったと即座の否定が脳裏に浮かぶ。寝る前に、ガスと鍵の確認を一通りするのは土屋の日課だ。窓の鍵を確認して、カーテンはきちんと閉めなおしたはずなのに。
もしや空き巣でも入ったのかと、物騒な予感を胸の隅に抱きながら扉のはめ込みガラスを覗けば、カーテンを開け放った窓脇に、小さくうずくまる毛布の山が見えた。
毛布の山の中身は、憶測など必要とせず正しく察することができる。だから土屋は、驚かせることがないようそっとリビングに立ち入り、気配を殺してその様子を見やった。扉は完全に閉まっていなかったから、音を立てずにすんだのが幸いだった。そう、ほっと胸を撫で下ろしたのは、毛布の山が小さく歌を歌っていたからだった。
ごく短いフレーズを、何度となく繰り返して紡ぎ続ける。飽きることなく繰り返しながら、床に長く伸びた影はゆらゆらと揺れていた。月明かりは蒼白く、夜の空気は青黒かった。薄蒼く仄白く、窓から差し込む光は部屋の中を切ない色に染め上げる。その光をいっぱいに浴びながら、毛布の山は小さく丸くうずくまり、紡ぐ旋律に合わせてゆらゆらと揺れていた。
旋律は、土屋の耳にしたことのないものだった。物悲しい印象を受けるのは、空間の色合いせいなのか、声の細さのせいなのか、肌寒い空気のせいなのか。出所の判然としない感傷に飲み込まれながら、土屋は黙って部屋を満たす微かな音の羅列に神経を傾ける。
きっと、元は子守唄なのだろう。寂しくて切なくて、でもどこか懐かしい。郷愁を駆り立てるフレーズが、じわじわと土屋の神経網を侵食していく。
床に黒々と伸びる影は、毛布の山のものだけではない。庭木の影が窓の向こうから腕を伸ばし、家具もまた、蒼白く染め上げられながらその投影を床に落としていた。夕食のあと、二人でのんびりテレビの音を聞き流しながら他愛のない会話を交わしたときには、あんなにあたたかくて色鮮やかだった空間が、いまは水底のような静謐さを湛えている。静寂をいっそう鮮明なものへと変えるかそけき旋律だけを時間の推移を示す指標として、ただ穏やかに鎮まり返っている。
なぜ、こんな時間に、こんなところで、たった一人で。静寂の底に沈むようにして、ひっそりと謡っているのか。疑問はさざなみのように土屋の胸に押し寄せ、それは知りたいという欲求になって運動神経を駆け巡る。
こんな風にあからさまな寂しさを滲ませて、ひとりで夜の中に溶け込んでいて欲しくはなかった。許されるのならば分かち合いたくて、許されるのならば、癒してあげたかった。しかし、決して許されないだろうことを、悲しいことに土屋は既に悟っていた。
毛布にくるまることで得るぬくもりは、きっといまは喪われてしまった人たちの腕の中のぬくもりの代用なのだ。本物を持ち込まないことで、きっと、最後の砦を必死になって守っているのだ。
知らないふりをするべきであることを、土屋は知っていた。
知らないふりをして、気づかないふりをして、触れずにそっと回避して歩くべきであることを、土屋はわかっていた。毛布を被りたいときには、そうさせておくのがいい。毛布ではなく、土屋の傍にいることを望んだときには、望まれるままに応えるのがいい。
放っておかれることであまりに深く根ざしてしまった傷を癒すことができるのは、本人だけなのだ。自然治癒に、余計な手出しは邪魔なだけ。ならば、欲されたときに欲されたまま、必要なだけ、過不足なく手を差し伸べればいい。
もどかしい思いを抱えて、不甲斐なさにうなだれて、それでも、そうすることが一番いいのだと知っているから。だから、土屋は己の選択を、誇りをもって貫き通す。
泣かないことが強さであるわけではない。かといって、泣くことが強さだとは限らない。毛布の中にうずくまり、月明かりの中にうずくまり、単調な声でたったひとつの旋律を追いかけるその心は、土屋には計り知れない。ただ、相手の強さを知っている。
傍によって抱きしめて声をかけて話を聞きたい。全身から湧き出す欲求を押し殺し、土屋はそっと廊下へと引き返した。音を立てずに扉を引き、蒼白い空間から真っ暗な空間へと逃げ出す。
眠気は相変わらず遠ざかったままだったが、眠りなおすことができるような気がした。鼓膜に残るメロディーをなぞりながら、自室に戻り、ベッドに潜り込む。毛布はすっかり冷めていたが、体温を吸い取って、徐々にぬくもりを増していく。
カーテンの向こうからひっそりと滲む月明かりをぼんやり眺めながら、土屋は願った。泣かないのか、泣けないのか、泣きたいのか。せめてはそれだけでも、知る権利を得られる日が一日も早くやってくることを。
毛布の代わりに、隣でぬくもりを分け与えられる権利を得られる日が、いずれやってくる未来を。
fin.
君は眠る。夜の色の海の中に。
君は歌う。月の色の真珠の祈りを。
なんぴとたりとも冒せない、涙の色の海の底。
timetable