■ カマイタチ
 あ、と小さな声を上げておもむろに考え込んだJに、豪はうろんな表情で振り返った。
「あ?」
「え?」
 そのまま口を開き、同じ音でも語尾を跳ね上げ、不可視のクエスチョンマークを付加しての発音だったのに、Jは目を上げると、同じ流れで声を発する。
「え、じゃねえよ。おれが聞いてんの」
 きょとんと見つめ、無言ながらも大きな蒼い瞳が、雄弁に何か用かと問いかけてくる。どうやら、先ほどの声は自覚のないものだったらしい。もっとも、その自覚のない一声こそが豪の用事そのものだから、不思議そうに小首を傾げられても困るだけである。
 考え込む姿勢をとっていたJは、左手の辺りを見つめているようだった。元々身長差がある上、いまの豪は床に座り込んでいて、Jはその隣に立っている。見ようと思っても見えない対象に、豪はちょいちょいとJのズボンを軽く引いた。
「なんかあったのか?」
「たいしたことじゃないんだけど」
「だけど?」
 要望に応え、すとんと膝を折ったJがしゃがみこんだところで、豪は言葉を続けた。言いながら手の内を覗き込んでも、ラップタイムを記した紙は右手に抱えられているし、特におかしなものは見当たらない。むんずと両手でJの手を握りこみ、じろじろ見回す豪のさまにわずかに苦笑を滲ませながら、Jはやんわりと応えた。
「ここ」
 豪の手の中で少しだけ角度を変えて、Jは左の親指を少しそらしてみせる。よく目を凝らせば、確かに、第一関節を少し下った側面あたりに、縦に小さく滲む赤い線が見えた。


 血が溢れるでもなければ大きさもたいしたことのない、どうせ痛みもろくに感じないだろう本当に微かな傷だった。
「なんだ、こんなことかよ」
「だから、たいしたことじゃないよ、って言ったじゃない」
 心配して損した。そうごちながら大げさにため息を吐き出した豪は、ようやくJの左手を解放し、がっくりと肩を落としてみせた。
「紙で切ったのか?」
「違うと思う」
 原因の可能性としては一番高かったが、それにしては不自然な位置だ。ふるふると首を横に振り、Jは上目遣いに見つめてくる青い瞳の奥に見える気遣いの色に、ほんのりと表情を緩めた。
「メンテのときにはなかったし、いつつけちゃったかなあ、と思って」
 空気が乾燥している時期でもあり、不用意に傷など作ろうものなら養父がこの上なく心配してくれることをJは知っている。それこそ、その心配様を見ている側がかえって心配になってしまうほど。だから、原因のわからない傷に、たとえそれがどんなに小さなものでも、気づいてしまった以上は明確な起源を見出したいと思ったのだ。


 目の高さまで手を持ち上げ、腫れもしないが消えもしない傷口を見ていたJは、視界を遮る形で差し出された小さな紙に視線を巡らせる。
「ああ、本当だ。たいしたことはなさそうだね」
 でも、一応。そう言って一旦は差し出した紙を引き戻し、手元で剥がして中身を取り出してくれたのは、Jを挟んで豪と反対側にいた烈だった。赤と白の紙袋の中から出てきたのは、薄いベージュの粘着テープ。
「手、貸して」
 てきぱきと出された指示におとなしく従えば、小さな傷口はあっという間に真新しい絆創膏によって覆い隠される。手際よく、しかしごく丁寧に余った部分のテープを、指を動かすのに邪魔にならないよう気を遣いながら巻きつけた烈は、出来上がりを確認してにこりと微笑んだ。
「ありがとう」
「どういたしまして。動かしにくくない?」
「大丈夫」
 関節にかかる部分に緩めに貼り付けた絆創膏は、問われて動かしたJの目線の先で皺を寄せたものの、特に気になるほどの制約を課してはこなかった。満足げにそれを見やる烈の手の中で小さく折りたたまれたごみを、Jは黙って取り上げる。
「お礼に捨てておくよ」
 何か言いたげだった雰囲気に先んじて言い切り、「ついでだしね」と遠慮の文句も封じにかかる。大げさに考える必要はない。ささやかで細やかな気遣いへのお礼であるというのも、どうせ後片付けをする際のついでであるというのも紛れのない事実だ。いったいどこまで深読みし、どこまで素直に受け取ってもらえたかはわからないが、とにかく烈はJの申し出を受け入れて「どうもありがとう」と応じてくれた。それで十分だった。


 烈とJとがにこにこと互いに笑いあうその場に現れた土屋に、なんとなく蚊帳の外に追いやられていた気分のしていた豪は、たったかと飛びついた。先ほどまで三人の頭を悩ませていたマグナムのコーナー直後の立ち上がり速度について、不満を訴えているようだ。
「絆創膏、いつも持ち歩いているの?」
「まあね」
 考えなしの馬鹿が身近にいると、生傷への対処も上達するんだよ。
 呆れたような吐息に乗せられた声は、諦観に縁取られたやさしい音色だった。誰と明言せずともわかりやすすぎるその言い様に、Jは困ったようなはにかみ顔になる。
 言われている相手の直情径行型の行動は、Jにとってみれば眩しく、いっそ羨ましいほどのものだ。しかし、それが怪我などの不慮の事態への注意力散漫につながるのも考えものである。
 研究所の救急箱に常備してあるものと少しだけ手触りの違うそれを撫でながら、Jは烈を見やっていた視線を、烈の見やっている先へと流す。
「カマイタチじゃないかな」
「ああ、そうかも。気がつかなかったのも仕方ないか」
「気をつけようがないよね」
 ぽつぽつと続けられる会話は、他愛なく脈絡の薄い途切れがちのもの。どこまでもなんとなく、の感覚の抜けない中途半端な空気に、Jはゆるりと身を沈める。
 あえて言うなら堕落という単語が見合うかもしれない、心地よく気の抜けた世界が、たまらなく幸せだった。
fin.
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 気づかないうちについている傷口を、いまでは癒す術を知っている。
 背負い込みすぎた傷口を、癒される喜びを知っている。
 だから痛くない。こんな程度の小さなかすり傷など、いまでは気にもならない。

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