■ 告解
「だめなんです」
「うん」
「忘れることはできません」
「うん」
「あの人たちはボクにとって絶対で、すべての基準を満たします。すべて、あの人たちを基準にしてしか、ボクは量れないんです」
 不器用に、ぎこちなく、必死に。言葉の海に溺れる子供は、握り締めたこぶしの震えを隠さず、地面を睨みながら声を絞り出していた。
「……うん」
 告白の言葉は、別に驚愕を誘発する内容を孕んではいない。直接そうと告げられたことはなくとも、なんとなく、察しはついていた。それでも、改めて本人に宣告されて、胸が軋むのを抑えることはできなかった。


「はじめて出会った幸福は、あの人たちの存在でした」
「うん」
 はじめてという定義には当てはまらないが、その人たちの存在は、大人にとっても幸福だった。その人たちがいなければ子供はこの世界に存在せず、大人が子供に出会うこともなかったから。
「はじめて出会った絶望は、あの人たちの喪失でした」
 その人たちの喪失は、大人にとっても胸の痛むことだった。大切な子供が、何よりも深い傷として抱える悲しみ。そんな悲哀を知らずに、無邪気に時間を送れればよかったのに、と思う。
 子供の言葉に、大人は相槌を打たなかった。軽々しく頷けるほど子供の絶望を理解しているとは思わなかったし、そんな生半可な状態で下手に相手の心に沿ったふりをすれば、子供の尊厳を踏みにじると思ったから。
「ボクは、自分自身を憎みました」
「…………」
「あの人たちを喪って、しばらくは何もわかりませんでした。何がなくなったのか、どう変わったのか、それが何もわかりませんでした」
「そうか」
「あの人たちの痕跡を少しでも鮮明なまま留めるべきだったのに、ボクがそのことに思い至ったのは、ほぼすべての痕跡が損なわれたあとでした」
 それは仕方のないことだと、大人は胸の中で呟いた。相手が大切であればあるほど、喪失によって奪われるものは大きい。心を丸ごと持っていかれるほどの衝撃だったろうに、そこに冷静な判断を求めるのは無理な相談だ。しかも、その衝撃に真正面から向き合って、傷をあえて抉るような判断など。
 しかし、大人は思いを音にはしなかった。子供の悔悟はまだ続いており、悲しいかな、子供は己を憎み、恨み、呪うことでささやかながら心の平穏を得ている。どんなに思いをこめてその自虐の螺旋を断ち切ろうとしても、言葉も思いも、すべては子供の頑なさを加速させるだけだと知っていた。


「どんなに自分を憎んでも、損なわれたものに修復はききませんでした」
「うん」
「喪われたものが取り戻せないとようやく悟ったボクは、遺ったものにしがみつくことしかできませんでした」
 どう言葉を挟むべきか。息を吸うためだろう口をいったん噤んだ子供に、大人は曖昧な、痛みをこらえる表情しか浮かべられない。
 頼りなげな細い肩と、見かけの年齢からは想像もつかないほど深い知識を詰め込んだ俯きがちな頭頂部。視界をぼんやりと子供で満たしていると、不意に子供は視線を大人に据えた。それは、告解をはじめてからようやく見ることの適った子供の表情。予想とは遠くかけ離れた、恐ろしいほどに凪いだ、作り物めいた無表情。
「無駄なことだとは知っていました。どれほど非生産的なことであるか、無意味なことか、すべてを知った上で、ボクは他の選択肢のすべてを切り捨てました」
 滲む壮絶な気迫に呑まれかけ、大人は息を飲む。対する子供はまばたきをひとつ。艶やかな、左右非対称の歪んだ笑みを浮かべる。
「そうすることでしか、ボクはあの人たちに対する弔いの方法を、思いつきませんでした」
 自嘲の色の濃い声音だったが、大人には、助けてくれと叫ばれているようにしか聞こえなかった。



「知っているよ」
 言葉は途絶え、子供は再び俯いてしまった。まだ終わりでないことは、思い悩んでいるらしい空気から察することが出来た。ただ、話を続けあぐねているのだろう。そのまま静寂だけが降り積もる。だから、今度は逆に、大人が口を開くことにした。
「君がどれほどその人たちを想って、大切にして、どれほど心を割いているのか。すべてを知っているとは言わない。でも、知っているよ」
「はい」
 子供は、大人の言葉を肯定した。知られていることを知っていて、それでもあえてなぜ言葉という明確な形にしたがったのか。大人には、子供の心の機微が読めない。
「怖かったんだろう? 言葉にするにしても、その痕跡にまつわるものに触れるにしても。どんなことをしても、少しでも君の心の中から外に出してしまったら、薄れて、やがて消えてしまう気がしたんだろう?」
「……はい」
 こくり、こくり、と。言葉を紡ぎながら、子供は頭を揺らす。
「喪失を恐れるのは、誰でも同じだよ。みんな、いつでも怯えながら生きているんだ。実在するものも、思いとか記憶とか、そういう形のないものも、何だって、喪われるのは悲しいし辛いことだね」
「はい」
「だからね、私はいま、とても嬉しいんだよ。不謹慎だけどね」
「え?」
 驚いた声と共に、子供は顔を上げた。丸く見開かれた蒼い瞳に、大人の少し情けない微笑みが映し出されている。
「君は、こうして言葉にすることで思いが薄れることを恐れていて、でも、それでもあえて私に話をしてくれている。喪失の恐怖を乗り越えて、その向こうに私を見てくれたことが、とても嬉しいし誇らしいよ」
 ゆっくりと、噛んで含めるように告げた言葉には、微かに歪む瞳の奥の光が返された。告白を悔やんでのものなのか、その他の感情によるものなのか。判断のつかない大人は、黙って子供の反応を待つ。


「怖いんです」
 独り言のような、ごくごく小さな声で、話は再開された。
「あの人たちにずっとずっと傾けて、あの人たちのためだけに割いていた思いがあります。なのに、それが少しずつ外に漏れ出しているんです」
 視線は逸らされたが、顔は伏せられなかった。地面を斜に眺めながら、まるでそこに告げるべき内容が落ちているかのように、子供はぽつりぽつりと言葉を拾う。
「これ以上思いを外側に広げてしまったら、もう取り返しのつかないことになると思うんです。でも、思いが流れるのが止められないんです。だって、そう想うのも本当なんです。どっちも本物なんです」
「うん」
 縋るように、赦しを乞うように、子供の声は切実さを帯びていく。きゅっと柳眉を寄せ、視線を大人へと戻し、子供は大きく息を吸う。
「はじめはずっと遠かったのに、気がついたら傍にいるんです。ボクも、傍にいたいって思うんです。通して遥かを思うだけだったのに、いつの間にか視線がそこで止まっているんです」
「…………」
「心が、あの人たちのところに飛ぶ前に、ここで止まってしまうんです」
 抽象的な表現の示すところを思い、大人は静かに息を詰めた。うぬぼれであってくれるなと、思い違いであってくれるなと。身勝手な期待に膨らむ胸が訴える願いを押し殺し、子供が止められないと訴える思いの先にいる相手を想う。


「……すきなんです」
 ゆるりと、その言葉は告げられた。
「あの人たちに向けていた思いを割くほどに、好きなんです」
「――うん」
「忘れることはできないけれど、でも、好きなんです。あの人たちも大好きだけど、大好きなんです」
 ぼろぼろと、大粒の涙をこぼしながら、子供は訴えた。
「わがままだって、わかってます。どっちつかずの思いは、贋物なのかもしれません。でも、ボクにとってはどっちも本物で、較べられないんです。どちらが上とか下とか、そういうのはないんです」
「うん」
「どうして、とか、いつから、とか。わからないんです。だって、好きなんです。どうしようもないんです」
「うん、うん」
「博士のことが、大好きなんです」
「私も、Jくんのことが大好きだよ」
 振り絞るような声に、土屋は湧きあがる笑みと言葉を包み隠さずJに渡した。涙まで添えて剥き出しの思いを渡してくれる子供に、少しでも見合うように。自分の心ごと掬い取って、そっと、こぼさないように。
 本物とか、贋物とか、それは別にかまわなかった。それを疑って、思いの本質を見失うような愚は犯したくなかった。だから、土屋はただ、声にならない言葉を口の中で転がしているJを抱きしめた。
「大好きです」
「ありがとう」
 ようやく単語を得た思いは短くてやさしくて、細い体は小刻みに震えていて、体温は土屋よりもずっと高くて。
 本当はもっと大きな子だけれど、幼い子供が泣いているのを抱いているような気分になった。
fin.
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 思いを言葉で、言葉を質量で。
 測る術はなくて、だから、本物か贋物かを知る術もない。
 本物と伝えたくて、贋物なのかと怯えて、流す涙は本物なのに。

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