■ イヴ
シュンッと空気の擦れる音がして、扉が開いた。続くのは驚いたような気配と、やさしく深い声音。
「リョウくんか」
どうしたんだい、こんな時間まで。振り向く前からわかっていたやわらかく細められた目元に、ふと安堵を覚える。包み込む空気は、この人が本当にやさしいから身に纏っていられるもの。多くの大人が少しずつ落として、見失ってしまったものを、大切に見つめている人。
「すみません、遅くまで」
「いや、かまわないよ。でも、適当なところで切り上げるようにね。成長期なんだし」
立ち上がったリョウが軽く会釈を送れば、土屋はゆっくりと歩を進めながら小さく首を振った。
「何か、思うところでもあるのかな?」
手にしている紙の束は、何かの記録なのだろうか。裏から透ける印字の存在に、仕事熱心な相手の健康こそが気遣われる。そんな事をぼんやり考えていたから、さりげなく滑り込んできた言葉に、リョウは表情を取り繕い損ねてしまった。
まあ座りたまえ。言いながら、土屋は率先して先ほどまでリョウが腰を下ろしていた位置の隣に座り込んだ。よいしょ、という掛け声がなんだか妙にしっくり似合っていて、少しだけおかしくなる。思わずもれた低い笑声に、振り仰いだ土屋は「おじさんくさかったかな」と照れた様子で頭を掻いた。
「調子はいいみたいだね」
「はい」
視線が目の前を通過したマシンに引き寄せられる。おとなしく元の場所に腰を落ち着けながら、リョウは問いかけに答えた。
「豪くんみたいな、本番に爆発するタイプの走りも見ていていいけど、君みたいな普段から安定している走りの方が、こちらとしてはほっとするよ」
「そうでしょうね」
間髪おかずに相槌を打てるのは、自分が彼の言う『こちら』の領域に近づいたからだと、リョウは知っている。それを静かに自覚するほどに、大人になったのだ。
「引退の話、Jくんにしたんだね」
「何か言ってましたか?」
「言ってはいなかったよ、何も」
意見らしきものは何も言わず、ただ事実関係を確認して、Jは何事かを考え込んでいるようだった。
「引き金にはなったようだけどね」
溜め息交じりの声には、深い情愛が滲んでいた。チームのメンバーを等しく可愛がってくれる土屋から、えこひいきなど、不公平な扱いを感じたことはない。そういった不当な扱いではなくて、これは当然の愛情の傾き。ひときわ深い思いがチームメイトに向くことを、不快になど思わない。むしろ、そこに築かれた確かな繋がりを思って、嬉しくなる。
「引き金というより、後押しでしょう。アイツの場合」
名前が出たとたんにチーム監督から一人の父親の顔になった土屋に、リョウは笑いながら応じる。やわらかく見えて実は相当に頑固な少年は、きっかけも結末も、すべて自分で決めてしまう。ただ時折り、善きにつけ悪しきにつけ、思いを後押しする存在を必要とするだけで。
隣に立っていて感じたことを素直に告げれば、軽く双眸を見開いてから「そうだね」と土屋は緩慢に首を振った。
もう何週目かも忘れた。それだけ長い時間マシンを走らせて、リョウは己に問うていた。じっくり考えてから出したつもりのこの結論は、本当に自分にとって覚悟のついているものなのか。未練を見栄と意地で覆い隠しているだけではないのか。
半端な気持ちのままレースを続けていたくなかった。それが最初に思ったこと。でも、中途半端な思いでレースを終わらせたくもなかった。それがいま思っていたこと。矛盾していると自嘲しつつ、それらをすべて受け入れた上での答を導きたかった。
「未練がない、とは言えないんです」
落とした声は、思いのほか静かなものだった。きちんと届いただろうが、土屋は視線をマシンから逸らさない。
引退の意思は、第二回大会の開催と参加を知ってしばらくして、既に土屋に伝えてあった。誰かに宣告されて終わるなど、冗談ではない。身も心も、すべてを捧げるほどに夢中になった。だからこそ、幕引きは自分の手で行いたかった。誰にも譲る気などない。
決断を急いだのは、変に逃げ道を残して迷いに揺れる己など見たくなかったから。その選択は確固とした意思であるから別段どうこう思うこともない。すべてをひっくるめて、それがリョウのプライドだった。ただ、どうやってチームメイトに切り出したものかは、考えあぐねていた。
リョウにはチームで最年長という時間のリミットがあった。しかし、それでもきっと、仲間たちは自分を通じてはじめて終わりを意識するだろうと思った。視野に入る可能性さえなかったものが、唐突に存在感を持つのだ。
大会がはじまって、年齢制限に関する協議がはじまったと聞いた。それを耳にして、烈はあっさりと受け流し、Jは何かを考えているようだった。段階を追った姿を目にしていたからこそ、リョウはつい、二人きりになった折にJにこぼしてしまったのだ。
子供の領域を逸脱しつつある友人に、遠からず己と同じ選択をするだろう未来を見たから。
コーナーを曲がる車体が見えたところで、リョウは立ち上がる。
「でも、大会が終わるまでには、消化できると思います」
「そうか」
片手に収まるほどの、小さなマシン。両手で抱えていた頃を思い出しながら、返ってきたやさしい相槌と視線に、リョウは微笑を返す。
「明日、ミーティングのときに話します」
「なら、レースの話は次に持ち越しだな」
きっと、荒れるだろうからね。穏やかに笑い返して、土屋はリョウの肩をぽんと叩いた。
fin.
終わりを見つめ、終わりを奏でるその日が来る。
やさしさに包まれた世界を終えるその日が来る。
その日の前に、残された時間に。私は誠意と覚悟を送る。
timetable