■ 保健室
控えめなノックに入るよう応じれば、そっと扉が開かれた。困ったようなはにかみ顔と、湯気の立ち上るカップ。それが自分用のものであることを認め、やってきた子供に土屋はにこりと笑って「ありがとう」と呟く。
片手でカップを支え、空いた手で後ろ手にノブを捻る。器用に、丁寧に扉を閉めて、Jは眉尻を下げた。
「いま、大丈夫ですか?」
「うん。ちょうど一息ついたところなんだ」
遠慮がちながらも、どことない切実さを滲ませた声に、土屋は頷く。仕事が終わったとは言い難かったが、別段急ぎのものでもない。今日の分のノルマは終わっている。それに、こんな風に縋りつく空気を醸し出す子供に、否と答える気など微塵もなかった。
カップの中身はコーヒーだった。いい匂いだね、と笑い、ありがとうと受け取る。それから、部屋に備え付けのソファに座るよう促して、電気ポットの湯を確認する。
「ココアでいいかな?」
「いえ、別にボクは」
予想通り、反射的な遠慮の文句を紡ぐJに、土屋は笑う。
「わざわざ来てくれたってことは、何かあるんだろう?」
少し意地悪かと思ったが、結局そう投げかけた。ぱちぱちと、長い睫が上下する。音がしそうだな、とぼんやり考える土屋の目をおずおずと見返して、Jはためらいがちに頷き、そのままうつむいてしまう。
「はじめから持ってきた方が良かったでしょうか」
「いいんだよ。私は、君にこうしてココアを入れるのも好きだしね」
弱気な声は、小さな溜め息に載って宙に逃された。お互いの反応を嫌というほど予測できるのに、あえて穴を残すのは、きっと無意識の内の甘えだと土屋は考えている。一部の隙すらないよりも、そちらの方がずっといい。それは、Jが土屋のことを、無意識に寄りかかれる存在だと認めてくれた証のように思えるから。
もっとも、部屋に置いてある道具だけですまそうと思うと、ろくなものにならないのも事実だ。本当に、インスタントの粉末を湯に溶かすだけ。子供と一緒に過ごす大切な時間に、こんなに簡素なものを添えるのかと思うと悔いが残る。
つらつらと考えを巡らせていても、慣れた両手は勝手に動く。土屋の部屋を、チームの他の面々が訪れることは少ない。来たとしても、何がしかの用があって呼び出しに来るぐらいなもの。だから、ココアと予備のカップは、Jのためだけに用意されたもの。
かき混ぜていたスプーンを抜き取って、自分が先ほどまで使っていたカップに放り込むと、土屋は踵を返した。
「はい。熱いから気をつけてね」
「ありがとうございます」
膝の上で両手を組んでおとなしく待っていた子供は、丁寧にカップを受け取り、小さくはにかんだ。
いつものごとくテーブルを挟んだ向かいに落ち着こうかと、土屋は腰を伸ばす。しかしその足が動いた方向は真逆。もう一歩、子供の方へと足を踏み出し、そしてわずかな空間を残してJの隣に腰掛けた。
Jが率先して土屋の元を訪れる機会はそれなりにある。だが、いずれの場合も明確な目的を伴ってのものであり、ふらりと姿を現すことはめったにない。第二回大会がはじまり、チームのメンバーと寄宿舎での共同生活になってからは、その傾向が更に顕著になった。差し入れ目的でカップを持って部屋を訪れてくれる習慣は日本にいたときのままでも、付随していた雑談がほとんどなくなってしまったのだ。
他の子供たちの目がある以上、完全にプライベートな過ごし方ができるのはそれぞれの私室内だけ。そこさえもいつ誰によって戸が叩かれるかわからない。監督であり異国の地での保護者代行でもある土屋の部屋なら、なおのこと。
わかっていて、それを意識せざるをえなくて、Jも土屋も、家族のように振舞うというより、監督とチームメンバーとしての距離を保つのが暗黙の了解となっていた。例外は、部屋で書類やらデータ処理やらを手伝ってくれた後の、ささやかな一休みの時間のみ。
「どうかしたのかい?」
だから、無言のルールを破ることになるのは承知の上で、土屋はあえて子供の隣から声をかけた。久しぶりに目の当たりにしたJの脆い表情に、距離を置いての相対を望みはしなかったから。
「今大会で、引退しようと思います」
視線は向けないまま、たっぷりと時間を置いて、Jはようやく口を開いた。
宣言は唐突なものだったが、予兆を感じていた土屋にとって、それはようやく形になったJの覚悟だった。
「苦しんだようだね」
「え?」
思わず、しみじみと呟けば、驚いたようにJが首を巡らせる。きょとんと見つめてくる子供に、土屋はただ真剣な眼差しを返す。
「よく考えた上での決断かい?」
真摯な響きに、Jは瞬きひとつで背筋を正す。そして、やはり真剣な、神妙な表情で、小さくもしっかりした声が「はい」と返してきた。
言葉を音にする際、痛みに歪むのを堪えきれていない双眸は、そのままふっとカップの上に落とされる。よく考えて、苦しみぬいて、それで下した結論に、きっとJは納得している。理性ではきちんと納得していて、そして感情が追いついていない。ただ、感情を理性で抑えつけられるようになったから、決意表明にやってきたのだろう。
自覚のない苦痛から、自覚のある苦痛へ。葛藤を見つめられるようになったということは、Jが半歩ほど、子供の世界を抜け出しつつあるということ。
「なら、私は何も言わないよ。でもね、Jくん、これは覚えていて欲しい」
「何ですか?」
そっと上げられた視線は、怯えていた。子供ではいられない。でも、大人にはなれていない。中途半端な位置で自己を保つことに必死な心は、見知らぬ覚悟を予感してか、警戒の色を一杯に湛えている。
「苦しむのも悩むのも、悪いことじゃない。当たり前だ。だから、気持ちが落ち着かなくなったら、いつでも相談においで」
警戒をほぐすように、やわらかな声音を意識して土屋はJの頭をそっと撫でた。
「無理はしなくていい。時には弱音を吐くのも大切だよ。心を楽にするのには十分役に立つんだからね」
「はい」
告げられた内容は、予測の範疇を大きく逸脱していたのだろう。驚いたように目を見開き、それからくすぐったそうに目を細める。それを機に、どこか危うさを漂わせていた空気が、緊張を失ってふんわりとやわらぐ。
頭頂部に置かれていた手がどけられるのを待って、陶器越しに指先を暖める役にしか立っていなかったココアを、Jはようやく口にした。
fin.
涙が凍てついて流れないのだと、そう言ってくれてもいいよ。
ここでだけは、どんな言い訳を口にしてくれてもいいんだよ。
涙が凍てつくにはあまりに暖かいけれど、きっと、君は凍えそうな気持ちを抱えているんだね。
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