■ 寄り道日和
出不精のJが、自分からわざわざ出向く頻度の高い場所のひとつに、図書館がある。出かけるのはもっぱら土曜の午前が多く、特に他の用事ができない限り毎週、欠かさず出かけている。
寄り道をしなさいと、土屋は言う。
時間と体力にゆとりのある日は、ぜひとも外に出なさい。そして回り道をしなさいと。
目的も意味もなくていいから、ぶらぶらして、それで日常の中に非日常を見つけられれば儲け物なのだとか。なにが目的でそんなことを言うのかと問うたJに、土屋は、とにかく広く世界に視点を向けてほしいのだと答えた。そのためのまず身近な一歩として、寄り道を推奨しているのだそうだ。
よくわからないながらも、まずは近所の散歩からはじめ、しばらくしてから週一回の図書館通いが追加された。本を一度借り、返しに行ったついでにまた借り、というのを繰り返すうちに惰性で習慣化したのが本当のところだったが、遠出をするようになったことを土屋が喜んでいるのが嬉しくて通う内に、いろいろな本を読むことが楽しくなったのだからまあいいや、と、Jは思っている。
図書館内に漂う独特の空気が、Jは好きだった。
背の高い書架にびっしりと本が詰まり、整然とそびえたっている。その合間を縫うようにして目的の本を、あるいは適当に興味のありそうな本を探して歩く。表題に惹かれて手にとったものの、内容にがっかりすることも少なくない。逆に、ありていでつまらない題名であっても、中身が面白いことも少なくないから癖になる。
本来それを目的にした場所なだけあり、蔵書数はかなりのものだし、自分の知識が偏っている自覚はある。研究所にもたくさんの本があるが、その性質上、技術関連の本が集中している。無論、自分がそういった技術方面に特に関心を持っているのも事実だったが、若いうちは広く知識を取り入れるべきだという保護者の言葉も理解できる。だから、適当にテーマを決めては本を借りに出かけることにしている。
急な坂道と階段を登り、図書館の入り口まで来たところでJは小さく息を吐き出した。
日ごろから走ることが多いのでこの程度の運動で息切れはしないが、一気に登ると少し息が詰まる。高齢者にはあまりやさしくない立地だと思われるものの、利用者の年齢層は案外高めだ。今日とて、バスを降りてからずっと目の前を元気に歩いていた白髪頭の男性は、目的地が同じだった。
元気だなあ、などとのんきな感想を抱きながら、自動ドアをくぐり、すでに顔を覚えた警備員に会釈をひとつ。返却カウンターに本を置くときは、識別用のバーコードを上に向けることも忘れない。作業に追われている職員の女性に「お願いします」と声をかけてから、無断持ち出しを認識するというバーの間を通って館内へ。
多くの人が集まっている場所に特有のどこかざわめいた雰囲気はあるが、ここは凪いでいる。不可思議なその空気も、Jが図書館を好んで訪れる理由のひとつだった。
にぎやかな場所は、あまり得意ではない。
人ごみに紛れれば、自分がいかに周囲から浮いた存在かを思い知らされることが多い。特異な外見をしていることに自覚はあるし、好奇や奇異の視線に晒されることにはもう慣れた。とはいえ、いつまでたってもそれは心地よくない。それでも、少なくともここでは、周囲の視線は目的の本にまず向けられているし、書籍を求めて毛色の違う人間もそれなりに訪れている。そんな日常がある空間であればこそ、Jに向けられる視線も、その他の場所で向けられるものに比べれば、さして温度差を持たない。もっとも、年齢に不釣合いな専門書のコーナーをうろついていると、また違った意味で不思議そうな好奇に晒されるのではあるが。
今日は、たったいま返したばかりの歴史小説の続編を借りることが第一目的である。先週まとめて借りようと思ったときには、貸し出し中だったのだ。予約は抜かりないし、その分はカウンターにあるはずだから、関連した歴史書を借りようと、エレベーターに足を向ける。歴史書が置いてあるのは四階。理工学書と同じフロアだ。
――そういえば、ネットワークがうまく動かないって言ってたっけ。
所内のコンピューター同士を繋いでいるネットワークが、どうも最近、不調らしい。実際に手伝っていても違和感を感じるし、土屋もそう嘆いていた。フロア案内を見ていてふと思い出したJは、ついでだからコンピューター関連の書籍も見てみようと決めて、到着した動く箱に乗り込む。
高台の中腹にあるだけあり、図書館の窓からふと目をやった景色はなかなかのものだった。今日は風も穏やかで太陽光はあたたかく、出かけるのには実にちょうどいい。
じっくり吟味してから選び出した本を詰めたかばんは重いが、物理的な重量よりも、そこに詰まった単位を当てはめられない重みを知っているから、文句は言わずにしっかり抱えなおす。
土屋は朝から出かけている。夕方には戻るそうだが、それまでは一人なので、昼食は適当に、どこかファーストフードなどですませるつもりだった。
「でも、こんなに天気がいいのに」
日の光を遮るところにいるのはもったいない気がする。
普段の自分の生活態度を非難するようなセリフを呟き、建物を出たJの視線は、坂の下ではなく更に上へと。もっと登って頂上まで行けば、公営の動物園があると聞いた。いまどき珍しく、入場料はかからないらしい。図書館に通っているのだという話をしたとき、星馬兄弟から思いもかけず得られた知識を辿れば、自然と足は上り坂を選ぶ。
そうだ、寄り道をして帰ろう。
天気はいいし、時間はあるし、読みたい本もある。場所は、そう、動物園には公園が付随していると聞いた。売店もあるらしいから、昼食も確保できる。今日行ってみて気に入ったら、これからちょくちょく足を運ぶ場所が増える。帰宅した土屋はきっと、今日一日のことを訊ねるだろうし、そのときにいつもとちょっと違った話をすることができる。彼は、Jの行動範囲の狭さを少し憂慮していたようだから、聞けばきっと、笑顔で歓迎してくれるだろう。土屋も喜んでくれるだろうし、彼が笑ってくれればJも嬉しい。
なんだか、いいこと尽くしな気がする。
自分の思いつきに笑みを刻み、Jは足取りも軽く坂を上る。
最短距離だけがベストじゃない。たくさん回り道をして、広く世界を見渡して、そして前を向こう。
今日は絶好の、寄り道日和。
fin.
メルフォの御礼小説からの再録。
あたたかな日差しに包まれて、さあ次へ進め。
自分の足で立って歩いて、世界を広げていくことを教えてくれたのは彼ら。
そして新しい世界に出会って、戻るべき世界の愛しさを再認識するのは彼。
timetable