■ 隣のあの子
 上空からいきなり降ってきたのは、たどたどしくも弾んだ声の、脈絡の読めない問い掛けだった。
「How many cards do you have?」
『……何なんだよ?』
『さあ?』
 振り仰いだのは同時。怪訝な表情も同様。しかし、反応をあからさまに示すか否かは、Jとグレイスとで大きく二分された。
 何枚ですか、と。それが何を示しての質問なのかはわかる。いま正に二人が覗き込んでいるのは、いわゆるコレクションファイルだ。おそらく、それを見ての問い掛けなのだろうが、見知らぬ相手にいきなりそんなことを聞かれて、訝しむなというほうが無理な相談だ。
 せっかく自慢の一品を見せているところを邪魔された形になったグレイスはあからさまに不機嫌な顔つきで。いつものことながら付き合いよくそれに応じていたJはあいまいな微苦笑で。それぞれに声の主たる二人の少女を見やる。
「あれ? 間違ってたかな?」
「えー、でも、カードって数えられるよね?」
 二人の少年の表情が見えていないのかそれともただ読んでいないのか。窓から半身乗り出すような姿勢を取っていた少女たちは、質問に対しての返答がないことへの疑問が一番大きかったらしい。剣呑な空気を垂れ流しているグレイスには頓着した様子などなく、首を傾げて話し合っている。


 耳に届いたやりとりから、何となく状況を把握したJが小さく苦笑を洩らすと、耳聡く聞き咎めたグレイスが視線を戻してその柳眉をひそめた。
『何だって?』
『言い回しはあっていたかな、って』
 日本語の授業を選択しており、なおかつ日常の大半を日本語環境で過ごすJにとってはたやすくとも、グレイスにとってはまるで意味不明の会話。求められて解説したJに、グレイスは理解できたようなそうでないような、複雑な表情だ。
『実践で使ってみたかったんじゃない?』
 推測だけど、と前おいてからJがそう補足を続けると、納得はあまりいっていないようだったがグレイスはふうんと気のない様子で頷いた。
 状況の整理が終わったところで、Jは改めて上空を振り仰ぐ。二人が座り込んでいたのは、隣接する学校の壁添いにあるベンチだ。いま少女たちが顔を覗かせている二階の窓がいったい何の教室かは知らないが、休み時間やら放課後にかなりの頻度で利用しているこの場所で、声をかけられるのははじめてだ。
「Do you know these cards?」
 経験のないことへの驚きはあったものの、わざわざ話しかけてきた相手を無下にすることもなかろうと、Jは声をあげる。
「やった! 通じてたじゃん!」
「知ってるの、って言ったんだよね」
 きゃっきゃとはしゃぐ様が微笑ましくて、思わずJは頬を緩めていた。隣は確か中高一貫校だったから、相手はどんなに下に見積もっても年上であるはずだ。失礼かな、と思いつつも、たった一言返しただけであまりに興奮されてしまっては、無理のない反応だと思い返す。
『サービス精神旺盛だな』
『異文化交流のいい機会だよ』
『お前の場合、相手が日本人で異文化になるのか?』
 黙って見ていたグレイスに呆れたように溜め息を吐かれ、Jは軽やかに笑う。
『理由なんか何だっていいんだよ。実践で使うのが一番、学習効率いいんだから』
 何より実地で使うことで言語が身につくことを、Jは身をもってよく知っている。そして、そのためには協力してくれる相手が必要であるということも。
 時間もあるし、どうせ自分は話せるんだし、他愛ない会話を少々だし。
 これを機に相手が何かを得てくれるのなら、それで何よりだと思う。慎ましやかなボランティア精神を発揮してにこにこと微笑み、肩を落としていたグレイスを巻き込んで、Jはどう返すべきかと思案している少女たちを見守る。


 一生懸命頭の中のボキャブラリーを漁っていたらしい少女たちは、窓の向こうから響いてきた別の声にぱっと振り返った。そのまま何事かやりとりをしているようだが、あいにく声が遠いため、Jとグレイスからはその内容までは量れない。
 やがて、少女たちが姿を消した窓から、新しい顔が出てきた。先ほどよりも幾分年かさだろうとあたりをつけて、Jはにっこり笑いかける。
「Hello.」
 まさかJから話しかけるとは思っていなかったらしく、彼女は一旦目を丸く見開いてから、困ったように苦笑を浮かべて口を開いた。
「Good afternoon. I’m afraid that they interrupted you. We’re sorry.」
 こんにちは。あの子たちがお邪魔したみたいで、ごめんなさい。
 先に話しかけてきた少女たちよりも熟練度の高い言い回しに、今度はグレイスも素直に耳を傾けている。堅苦しくたどたどしいながらも、出来うる限り丁寧に、誠実に接そうとしてくる態度が滲み出ていて、Jはふわりと目を細める。
「Not to worry. We just enjoyed talking.」
 気にしないでください。おしゃべりをしていただけだから。
 隣で何か言いたげな目をしていたグレイスを笑顔の力で抑えきり、Jはほっと力を抜いた相手の返事を聞く。
「They were only eager to talk to someone in English.」
「I know.」
 ただ、英語を使ってみたかっただけ。
 告げられた理由は予想通りで、Jはくすりと微笑み返した。続けざまに悪気はなかったのだと言い募る少女の後ろから覗くふたつの顔は、不安と憧れをないまぜにした視線で彼女とJとを交互に見やる。
「Now, we have to go. Thanks for your gentleness. See you.」
「Forget it. Bye.」
 ご親切をありがとう、さようなら。どういたしまして、さようなら。
 送られた会釈にJが小さく手を振り返せば、会話の相手の背中から少女たちが満面の笑みで手を振ってきた。


 ただ傍観していたグレイスがようやく口を開こうとして、再び降ってきた黄色い声に動きを止める。そこに嗜めるような落ち着いた声が被さって、わかったのかわかっていないのか、渋々といった調子で応じる声が続く。
『……何だって?』
『最後の人、あの子たちの先輩だったんだって。会話が成り立っていたことに感動されてる。でも、見知らぬ相手にいきなり話しかけるのは不躾だから、って注意した』
 やりとりが一段落したところでグレイスが聞き覚えのあるセリフを紡ぎ、Jは苦笑をもって拾った内容を解説する。
『まあ、当たり前だな』
 溜め息ひとつで切り返したグレイスは、「今日はいいや」と言いながら手元のファイルをぱたりと閉じた。
 グレイスの母国たる米国でも有名な日本発のゲーム関連商品であるカードのコレクションは、彼の自慢の一品だ。日本在住の利点を活かしたそれらは、米国では未売のものも多い。そこで、長期休暇に持ち帰って向こうの友人に自慢するため、カードに書いてある内容を説明して欲しい、と乞われたのがこの会合のはじまりだった。
 今日も、いつものごとく週に一度の勉強会の予定だったのだが、不思議な闖入者によってグレイスの学習意欲は削がれてしまったらしい。事情を知ることなどないだろう闖入者たちの会話は、まだ上空の窓の向こうで続いている。


『はじめの質問、今日の授業の例文そのままだったんだって』
 ちょうどいい場面に遭遇し、年下と思える外見にうっかり話しかけてしまったのだと言い訳をする声が聞こえて、Jはくすくす笑いながらそれを中継する。と、一際甲高い声が上がり、それを皮切りに少女たちの会話は一気に過熱を見せ、Jの笑いはついに抑えが利かなくなった。
『今度は何だよ?』
『君、彼女たちのタイプらしいよ』
 けらけら笑い混じりに告げたJは、それも話しかけたきっかけだったんだって、と忠実に会話を訳していく。
『冗談じゃない。オレ、ストライクゾーンは同年代までだぜ』
 げんなり応じたグレイスは、しかし、不意にぴたりと笑いやみ、複雑な表情を浮かべるJに意地の悪い笑みを刻む。
『どうした? お前は守備範囲外だって?』
『……そうじゃないけど。君はカッコいいで、ボクはカワイイっていうから』
 会話はわかっていないくせに実に鋭い勘を発揮したグレイスに諦めたように目線を伏せ、Jは「褒め言葉じゃないよね」と小さくぼやいた。途端、グレイスが弾かれたように笑い出す。いつの間にか立場が逆になったグレイスに文句を言ってもお互いさまの一言で返されてしまい、Jはむくれながら立ち上がる。
『あ、待てよ!』
 そのまま足早に歩き出してしまった背中を追いながら、ふと思い立ってグレイスは後ろ上空を振り返った。案の定そこにあった、ちょうどいい笑いを提供してくれた窓から覗く三対の瞳に、グレイスは感謝の意をもってにこやかに手を振ってやる。響いた歓声は予想よりもずっと耳に心地よくて、付随したのは異文化交流もまんざらでもないとの現金な感想だ。
 そしてグレイスは、へそを曲げてしまった友人を宥める言い訳を考えつつ、正面に向き直り足を速めた。
fin.
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 出会い、紡ぎ、繋がり、そしてまた出会う。
 偶然でも必然でも、そんなのはどちらでもいい。
 ひとつひとつの出会いを紡いでいければと願うから、すべての出会いを大切にするその姿勢。

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