■ 宵月夜
「まったく、いくつになっても落ち着きのない」
隣でぼそりと落とされた声に、Jは思わず笑い声をもらしていた。連れ立って歩いているのは土屋の母。二人の視線の先には、夕闇で見通しは悪いだろうに、あたりを見渡してはそわそわと落ちつかなげな土屋の背中がある。まだ待ち合わせには少々時間があるが、そんなことはまったく考えていないらしい。
ほんの少し足元が乱れて、Jは息を呑んでバランスを整える。
「おやおや。そんなに急がなくても、時間には十分間に合うよ」
横合いからそっと少年を支えながら、彼女はほんのりと笑った。どうやら、知らず早足になっていたらしい。普段ならどうということはないのだが、どうにも浴衣に下駄といういでたちは慣れないためか、足元がおぼつかない。
「博士」
「ああ、早かったね。……って」
しばらく進んで背後に立ち、そっと呼びかけたJに答えて振り向いた土屋は、予想外のその姿に、瞬きを繰り返す。
「なんだい、感想の一つや二つ、ないの?」
「え、ああ。よく似合ってるね」
「芸がないねえ。他にはないのかい?」
じっと見つめられ、Jが反応に困って微笑んでいると、そのとなりから鋭い舌鋒が飛んでいた。我に返って破顔した土屋は、舌の先も乾かないうちに駄目出しを受け、眉を八の字に寄せる。
「そんなこと言われても、似合っているとしか」
「かわいいねとか、綺麗だよとか。言いようはあるだろうに」
「ええと、その浴衣はどうしたんだい?」
「私が用意しておいたんだよ」
舌戦では分が悪いと悟ったのか、土屋は話の方向をほんの少しだけずらした。そんな心の内までお見通しなのか、単に乗せられただけなのか。土屋の母は、いい目をしているだろう、と得意げに微笑む。
土屋の帰郷に半ば強制的につき合わされて二日目。土屋の両親は、ずっと孫が欲しかったんだよと、何も詮索することなくJのことを猫可愛がりしてくれた。土屋も十分に可愛がってくれているのが伝わってくるが、彼の場合はその前にあった諸々の事情が邪魔をして、どうしても腫れ物に触るようになってしまうし、邪推が入ってしまい、素直に厚意を受け取れない。それに引き換え、彼らから注がれる過剰ともいえる無心の愛情は、ぴりぴりと張り詰めていたJの心を、確かに少しずつ溶かしていた。
今宵は神社の大祭があるとのことで、どこからか土屋の帰省を聞きつけていたらしい近所の男に連れられ、土屋は朝から父親とともに準備に借り出されていた。ゆえに夕方、祭が始まるころを目安に待ち合わせをしていたのだ。
いま着ている浴衣は、この帰郷が決まってすぐに土屋の母が用意したものらしい。電話越しに声を聞いて柄行きをイメージしたのだそうだ。しっとりと落ち着いた濃紺の地に、白で大胆に格子と夏草が描かれている。祭に出かけるんならせっかくだからと願われ、着付けてもらったのだ。
いきさつを聞いた土屋がなにか感想を漏らすよりも早く、彼女はひょいと首をめぐらす。
「おじいさんは?」
「神主さんと打ち合わせだそうだけど」
「じゃあ、私は舞い手さんたちの着付けを手伝ってくるからね。観終わったら、あんまり疲れさせないうちにちゃんと帰るんだよ」
「あー、はいはい」
「もっとしゃんとした返事をおし」
うんざりしたように返す土屋にびしりと言葉を投げつけ、彼女はそっとJの頭をなでた。
「楽しんでおいでね」
「はい」
素直に頷いたJに満足げな笑顔を送り、彼女はするりと人ごみを抜けていってしまった。年のわりにすっと伸びたその背を見送り、土屋はひとつ、大きく息をつく。その様子がなんだかおかしくて、Jはそっと、口元を押さえて笑みをかみ殺した。
神社で大きな祭があるとは聞いていたが、そもそも祭自体が物珍しい上、これほどの規模とは思ってもいなかったJにとって、すべてが不思議の連続だった。
声に出さずとも興味津々の視線は伝わるものだ。土屋はJと連れ立って歩きながら、簡単に、並び立つ屋台の内容を説明してやる。
「あれは金魚すくいだよ。大きな桶がおいてあるだろう? あそこから、紙を張った道具で金魚をすくうんだ。破れたらそれでおしまい」
「紙を水につけたら、すぐに破けるんじゃないんですか?」
「んー、コツがいろいろあってね。意外とすくえるものなんだよ」
それでも、やってみるかと問うても、Jは首を横に振るだけ。遠慮はいらないと言っても、決して首を縦に振ろうとはしない。すべて言葉は本心からのものだしJがいろいろ考えた上で反応しているのはわかっていたが、あまり強く言ってもと、土屋もまた適当なところで退かざるをえない。
途切れてしまった話を繋げるべく、次はなにを説明してやろうかと視線をめぐらせていた土屋は、耳に届いたJの声に、顔を下向ける。
「いつも、こんなに人出があるんですか?」
「いや、今年は特別だよ。祭自体は毎年あるんだが、中でも七年に一度、大祭というのがあってね」
今年はそれに当たる。普段なら簡単に終わらせる神事をきちんと執り行い、子供から大人まで、踊り手や楽器の奏者を決めて準備を整え、舞の奉納を行なうのだ。ちなみに、今回のそれら裏方の元締めには、土屋の両親があたっている。
「舞は全部で七つあってね。すべてをあわせてひとつの儀式となっているんだ」
「博士が子供のときからあったんですか?」
「うん。いつも、この祭で夏が終わったんだ」
ふうんと呟き、Jは視線を前に戻した。
舞の奉納は、完全に日が落ちてから、月明かりとかがり火の中で行われる。その前に腹ごしらえをしようと誘われ、Jは選ぶようにと示されたお好み焼きと焼きそばの屋台の前で眉根を寄せる。
「食べたことは?」
「……よく、わかりません」
そもそも、食事にそんなに気を遣った覚えがなかった。食べられればそれでよかったし、それゆえ嫌いなものもなければ好きなものもない。パンとご飯と麺の区別はついても、その細かい分類を問われればお手上げの自分に、料理名と味とを結び付けて選べというほうが無茶のような気がする。
どうしたものかと土屋を振り仰げば、両方買って両方食べればいいと、実にあっさり返された。
単品の量を少なめにしてもらい、二パックずつ購入したそれを抱えて、二人は特設の舞台を目指す。Jが途中で目についた桶で冷やされているガラス瓶をなんとなしに眺めやれば、土屋はそれも購入。ビンはその場で開けてもらった。もはや遠慮しても遅いと、うながされるまま素直に口をつければ、さっぱりとした炭酸飲料がのどを滑り落ちる。
特別な時間が過ぎていく。いつもと少しだけ色合いの違う時間だ。
すべてが珍しく、すべてが新鮮で。Jは、普段はめったにない口元が自然とほころぶ感触に、ますます笑みを深める。
お祭り騒ぎと祭礼の時間とを分ける花火が打ち上げられる。それを合図に、人々はぞろぞろと、境内の奥に作られた舞台を目指す。
余計な照明が落とされ、かがり火と月明かりの下、場を清める剣舞がまず厳かにはじまった。間をおいて、次々と舞が続けられる。凛と張り詰めた空気に、楽の音が響く。息を詰めて見入っている子供の横顔をそっと見やり、土屋は目元を緩める。この非日常を共有できたことで、少しは彼の心を解きほぐすことになるだろうか。
場を清め、神を呼ぶ。粛々と続く一連の歌舞の中、しんと静まり返った客席に小さなざわめきが生まれた。なにごとかと見やれば、社の奥にある森から迷い出てきたのか、数匹の蛍が飛んでいる。
――ああ、そういえば。
古い記憶をたどれば、いつだってこの大祭の夜には不思議なことが起きていた。季節を過ぎた蛍がこうして飛ぶこともあったし、流れ星がたくさん見られることもあった。あながち神事というのも形だけではないのかもしれないと、いつだってそう思わされた。いまとなっては、懐かしくも特別な思い出だ。
となりでいつになく目を輝かせている子供にとっても、特別で懐かしい思い出になればいいのに。そんなことを願いながら、土屋は改めて舞台を眺める。
演目がすべて終わるころにはだいぶ夜も更け、深夜に近くなっていた。
人波に流されるようにして土屋と境内を下りながら、Jはそっとあくびをかみ殺す。いつもならかなり遅い時間まで起きていてもわりと平気なのだが、非日常が凝縮された今日は、思ったより疲れているらしい。始まる前に、終わったらばさっさと帰るようにと促していた土屋の母の言葉の意味が、いまさらになってわかったような気がした。
ようやく神社の本通りを抜けると、今度は逆に、がくりと人の数が減った。静まり返った暗い夜道を歩きながらそっと目元をこすると、唐突にとなりを歩いていた土屋が立ち止まった。なにごとかと思い慌てて足を止めれば、なんの前触れもなく、土屋は軽いかけ声とともにJのことを抱き上げた。
事態の把握が追いつかず、声も上げられずに呆然としているJを抱えなおし、土屋はやさしく言葉をつむぐ。常ならず自分の下から響いてくる声に、ずり落ちないようにと思わず土屋の首に縋りついていたJは、ますます唖然としてしまう。
「疲れただろう? 下駄は慣れないだろうし、もう遅いから眠いだろうし」
うまく隠していたつもりが、土屋には自分がすでに半分眠りかけていることがばれていたらしい。それはそれでショックだったが、何よりこれはあってはならない状態だと、Jは残っている理性をかき集めて降ろしてくれるよう願い出る。
「大丈夫です。ちゃんと自分の足で戻れます」
「たまには甘えてごらん。君はいつだって、無理が過ぎる」
返されたのは、深いやさしさを湛えた大人の声と、あやすようにして背を叩く手の感触。
「寝ちゃっていいよ。大丈夫、君は軽いからね。落としたりなんかしないさ」
理性が叫ぶ声を受け入れず、縋りつく手は土屋を離そうとしないし、体はその位置を嫌がって暴れようともしない。向けられるやさしさに思い知らされるのは、言われるとおり、甘えてしまいたいと願う己の心の奥底。
今宵は特別だから。
言い訳がましいと思いながらも、胸の内でそう呟き、Jは状況に甘んじることにした。あっという間に重くなるまぶたが閉じないうちに礼を言おうと口を開けば、ひょいとはぐらかされる。
そのまま自己嫌悪の無限ループにはまり込むのが常の自分だ。そんなことを自覚しながら、少年は、抱き上げてくれる大人のゆとりを羨ましく、まぶしく思う。
かなわない。どんなに背伸びをしても、駆け足になっても、自分はまだこの人には追いつけない。自嘲よりもなによりも、いまはそう、素直に思うことができる。
夏が終わる。
涼しい夜風に長時間あてて、寝ている子供が風邪を引かないように。土屋は少しだけ歩調を速めた。
fin.
凝り固まっていた思いが、潮風に吹かれてほぐれていく。
非日常の空間に飛び込んで、ここは舞台の上だからと言い訳を与えよう。
だからどうか、もう少しだけ。君の心に近づかせてくれと、それは音にならない彼の願い。
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