■ ハンドル
 人手があるにこしたことはない。
 そんな理由で土屋が近所の知り合いとおぼしき男たちに連れて行かれたのは、朝食をとって、のんびりと昔語りをしている最中のことだった。
「行動が早いねえ」
 のほほんと、息子が引きずられていくのを眺めていた土屋の母は、何やら訳知り顔だ。おそらく、情報ソースは彼女なのだろう。
「なにか、あるんですか?」
 昨日、準備のために借り出された土屋に関しては事情を知らなかったためただ呆然と見送るだけだったが、今度は違う。またなにか、地域の人間が総出で取り組むようなことがあるのかと、Jは小首を傾げる。
「お祭りの片付けに人手が欲しいんだよ。準備もそうだったけど、なんだかんだと、やることはたくさんあるからね」
「じゃあ、おじいさんもですか?」
「そうだよ。まったく、年甲斐もなく張り切って。腰を痛めたりなんかしなきゃいいけど」
 土屋の父は、もう少し早い時間に気合も十分に出かけている。茶を一口すすり、彼女はやはり、のんびりと呟いた。差し向かいで正座する形となったJは、小首をかしげたまま問いを重ねる。
「そんなに重労働なんですか?」
 腰を痛めかねないほどに。
「あの人は変に見栄張って、若い衆の仕事にまで手ぇ出すから」
 辛辣な批評になんと返したものか考えあぐね、Jもまた、目の前においてあった茶碗を手に取る。土屋の母の茶碗からは湯気が上がっているが、こちらは陶器越しにもひんやりとした感触が伝わってくる。子供は熱い茶など苦手だろうと、無言の気遣いの結果だった。
「さて、と。弁当でも作るかね」
「ボクにもお手伝いできますか?」
「じゃあ、一緒におにぎりでも握ろうか。やったことあるかい?」
 黙って首を横に振ると、じゃあ教えようねと、彼女はにっこり微笑んだ。


 土屋の帰郷に半ば強制的につき合わされて三日目。土屋の両親からの出会うなりの懇願により、Jは彼らをおじいさん、おばあさん、と呼んでいる。本人たちはもっとくだけた呼び方を希望したが、さすがにそこまではできなかった。
 ずっと孫が欲しかったんだよと、二人は何も詮索することなくJのことを猫可愛がりしてくれた。土屋からも無心の愛情を感じることができるが、溢れ、それでもなおと注がれる愛情に不慣れなJは、戸惑いながらそれらを眺めて立ちすくむことしかできずにいる。
 どうすればいいのか、どう返せばいいのか。答が見つからずに俯くのがJの常の姿で、なにも言わず困ったような微苦笑でそれを見つめるのが土屋の常のあり方だ。だが、土屋の両親はそれを良しとしない。
 ただそこにいて、うろたえるぐらいでもかまわないから、この気持ちの注がれる対象になっていて欲しいと、そう望まれた。だから、Jはただ眺めやる。自分に向かって惜しみなく施される感情の奔流の行く末を、いぶかしみ恐れながらも、知りたいと欲するから。
 戸惑おうがどうしようが、温かな心を向けられるのは、冷たい心を向けられるよりもよほど嬉しい。つまるところ、その事実は変わらない。
 いっそ開き直ることで気づけばほのかに口元の緩む感触を楽しみながら、Jは慣れない手つきでしゃもじを取る。
「こうなることを、見越していたんですか?」
「年の功ってやつさね」
 朝食の段階でやたら残飯量が多いとは思っていたが、大の男二人分の弁当を作るのなら、まあちょうどいいのかもしれない。返されたのは、いたずらっぽい笑顔だった。



 結局、土屋の母も別方面の片付けを手伝いにいくとのことで、弁当は四人分となった。お昼を一緒に食べて、ついでに見学でもしておいで、と。
 男たちが仕事をしているという神社の手前で分かれ、Jは三人分の弁当を手に、長い石段を登る。軽く息をあげながら鳥居をくぐると、ちょうど行きすぎようとしていた和服の老人が気づいて声をかけてきた。
「もしかして、土屋さんとこの子かい?」
 風体からして、きっと神社の人間なのだろう。穏やかさの中に凛とした威厳を感じ、Jは思わず姿勢を正して頭を下げる。
「緊張しなくていいよ。私はここの神主だ。お昼を届けにきてくれたのかな?」
 こくりと頷くと、案内しようといって、神主は先にたって歩きはじめた。半歩後ろまで小走りに駆け寄り、Jが一緒に歩きはじめたのを横目で確認して、彼はおもむろに口を開く。
「会ってみたいと思っていたんだよ。あんまりにも嬉そうに自慢されるものでね」
 意外な単語に驚いて目を見開くJに、神主はただ、なにものをも包むような深い笑顔を向けた。


 建物を迂回して神社の裏手に回り込めば、そこにはバラバラに崩された舞台と、それをのんびりと片付ける男たちの姿があった。
 目的地までの案内に、まずは丁寧に頭を下げることで謝礼を示し、Jはにこにこと作業を見守る神主の横、目的の人影を探す。
 が、その作業は、すぐさまかけられた声によって中断された。音源に首を巡らせれば、笑って手招いてくれている土屋の父の姿がある。
 軽い会釈を送ってから神主の隣を離れ、Jはそちらへと駆け寄っていく。
「どうした? 見学かい?」
「お昼をお届けするように、と」
「おお、そうか! ありがとうな」
 周囲からかけられる挨拶の言葉にきちんと返しながら辿り着けば、土屋の父は思い切り相好を崩し、わしゃわしゃとJの頭を撫でてきた。丁寧とはいいがたいその扱いにJは思わずバランスを崩しかけるが、ぐらりと揺れた肩には、力強く支える手がある。
「……あまり、彼をいじめないでもらいたいんだが」
「博士」
 続いて頭上から響いてきた声に顔をあげれば、穏やかな笑顔が降ってくる。
「暑い中、わざわざありがとう、Jくん」
「いえ。博士もおじいさんも、お疲れさまです」
 不満そうな顔をしながらもJの頭をぽんぽんと軽く叩いてから解放した土屋の父と、しっかりバランスを取ったことを確認してから手を離した土屋と。それぞれの気の遣いかたへの感謝を込め、Jはできる限りの笑顔を向けながら手の中の弁当包みを示す。
「これ、どこに置いておけばいいですか?」
「その辺の日陰になっているところに、適当に置いといてくれな」
「はい。あと、ボクにもなにか、お手伝いできることはありますか?」
「手伝ってくれるのか? じゃあ、じいさんと一緒に作業しよう。な?」
 やはり、頭をわしづかみにする勢いで大きく体を揺さぶられながら、Jははにかみと共に首肯を返す。
「ほれ、お前はそんなところでぼさっとしてないで、さっさと持ち場に戻らんか」
「え? あ、ええと! Jくん、別に気を遣ってくれなくてもいいんだよ?」
 不覚にも、いまだそうそう高い頻度で見せてくれたことのない、子供らしい笑顔のオンパレードに我を忘れていた土屋は、背中を叩かれて思考を取り戻す。こんな雑多な作業に携わらなくても、と続けかけた言葉は、しかし、自らの父親によって遮られてしまう。
「孫と一緒に作業するっちゅう最上級の贅沢を、むげに取り上げるもんじゃない。なあ、Jくん?」
「ボクが、やりたいんです。ご迷惑じゃなければ、お手伝いさせてください」
 困ったように見つめてくる土屋に、Jは上目遣いでたたみかける。そこまで言うなら、と土屋は戸惑いながらも了承を返し、土屋の父はそれみたことかと高笑いを披露する。


 さっさと戻れ、邪魔をするな、とそのまま追い出され、背中に哀愁を漂わせながら去っていく土屋に、Jはふと思い立って声をかけてみる。
「あの、博士」
「なんだい?」
 足を止め、振り返り、やわらかく微笑みかけてくれた土屋に、Jは勇気を振り絞る。
 きっと、いまだけだ。
 いまは祭りの後の、まだ特別が残っている時間で、ここは土屋の田舎で、その中でも神社という特殊な空間。しかも、今朝はお弁当を作るなどという珍しい行為にも挑戦したし、土屋の両親からの過剰なほどの甘やかしを全身に浴びて、いつもより子供っぽい感情や反応が前面に出ていることも自覚している。
 らしくないことはわかっている。それでも、いまだけだから。特別だから。
 もう少しだけ、Jはわがままな子供になってみることを思い立つ。
「お昼、一緒に食べましょう?」
 頬がわずかに上気している感覚はあったが、声は震えても上擦ってもいなかった。
 うまく伝えられた感触は同時に、唖然とした様子で見つめ返すだけの土屋に、やはり、こんなことは言うべきではなかったかという後悔に取って代わられる。
「待て待て、Jくん。それはずるいぞ。じいさんも一緒がいいに決まっているだろう」
 年寄りに寂しい思いをさせる気か、と茶目っ気たっぷりにまぜっかえす土屋の父が、Jの背後から肩をばしばしと叩き、子供には見えないように、そっとやわらかい視線を土屋へと流す。
 目で促され、ようやく我に返り、土屋はどことなくしょんぼりしてしまった風情の子供に慌てて声を返す。
「も、もちろん! じいさんが一緒というのが気に食わないけど、でも、うん。そうだね、一緒に食べよう」
 肯定の返答が得られたことがただ嬉しくて、Jは反射的に笑顔を刻んで大きく頷く。贅沢ものめ、とか、いい思いをして、とか。周囲からさんざん野次を飛ばされながら、土屋もまためいっぱいの笑顔を返し、己の持ち場へと帰っていく。
「さて、Jくん。こっちも作業をしようかね」
「はい」
 いいなあ、可愛いなあ、とこちらも周囲からいろいろと言葉が飛んでくるが、土屋の父は嬉しそうに胸を張り、いちいちJのことを自慢しながら手を進めていく。指示されるままに組み立ててあった舞台を解体しながら、Jはくすぐったい思いが胸の中に蓄積していくのを知る。


 もう少し、もう少しだけでいい。
 この特別な時間が続いて、普段は動かない感情がもっと動いて、そして心を満たしてくれればいいのに。
 他愛もなく切実で、そして誰にも告げる気のないこの衝動を、きっと忘れないようにしよう。そうすればもう少し、大切と思える相手が増えて、大切と思える人に近づける。
 潮気を含んで駆け抜ける風に瞳を細めながら、Jは少しずつ、ぎこちない手つきと笑顔とに、磨きをかけていく。
fin.
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 取り囲まれて呑み込まれて、徐々に解き放っていく。
 思いを言葉に、思いを行動に、思いを笑顔に乗せて解き放っていく。
 大丈夫なのだと、子供の確信が、強まっていく。

 handle(ハンドル) --- 取っ掛かり、乗ずべき機会、口実。

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