■ 白雨
遠くでごろごろと鳴り響く遠雷には気づいていたが、まさかこんなすぐに降り出すとは思わなかった。真っ青に透き通っていた空をいまは鈍色の雲が覆い、光に満ちて眩しかった世界は、薄暗い中にもどこか白々とした光を感じさせる光景へと様変わりしている。
どうしたものかと、土屋は眉根を寄せ、必死になって首を巡らせた。
ここは片田舎だし、髪の色を多少染めているものはいても、あれほどに鮮やかな色彩を持っているのはきっと探し人だけだ。薄暗い中でも絶対に、見落とすことなどないと言い切れるのに、見つけられない。
こんなことなら先に帰すのではなかったとか、まっすぐ帰るのを推奨しておくんだったとか、後悔は絶えない。
祭の片付けも終わり、そのまま飲み会へとなだれ込んだそれまでの流れは、別に珍しいものではない。酒で妙にテンションの上がる大人たちと一緒にいてもあまり面白くないだろうと、考え込む土屋のことを敏感に察したのか、Jは先に戻ろうと、自ら言い出した。神社が珍しいから見てみたいのだと告げられ、ならばついでに、少し散歩でもしながら帰ってはどうかと提案すれば、Jが土屋の言葉を拒絶するはずがない。
向けられた提案に素直に頷き、丁寧に辞去の挨拶を残して去っていった細い背中を土屋が見送ったのは、一時間ほど前の話だ。
雨音と吹き込む風の湿っぽさに気づいたときには既に、土砂降りの雨が降っていた。
もう家に辿り着いていてくれれば心配することもなかったのだが、電話をしてみても呼び出し音が続くだけで、反応がない。次の手段として土屋に選択できたのは、傘を持って酒盛りの会場から飛び出し、子供を捜すことだけだった。
神社の境内に人影は見当たらず、家までの道を辿っても、子供の姿はない。どこをどう歩いているのか、土地勘がない相手を土地勘のある人間が探すというのは、なかなかに骨の折れる作業だ。まして自分と相手は大人と子供で、思考回路の成り立ち方がだいぶ違う。加えて、土屋はJのことをよく知らない。
無口で反応が薄くて、ぎこちない笑みを必死に浮かべる臆病な子供。その彼が、いったい何に興味を持ち、何を好み、何を忌避するのか。ひとつも知らない。
知らなければ察することができず、ゼロからの探索はほぼ無限大の可能性を提示する。せっかくこの帰郷でわずかに縮まりかけた距離を、再び崩すつもりは土屋にはなかった。ここで垣間見られた彼がひた隠す心の奥底の表情を見失ってしまえば、きっと彼はまた距離を築き、埋めがたい溝を深めるだろう。確信めいた予感に突き動かされ、土屋はもう一度、家から神社までの道を辿る。
あの子にはこの道しか教えていないから、他の道を通ったとは考えにくい。実家と、神社と、あと他に彼が足を向けそうな場所。必死に考えを巡らせながら石段を登りつめて境内に戻ってきた土屋は、思考の隅にもうひとつの石段の存在を思い出し、慌てて足を向ける。メインとして使われている石段よりも古いそれは、海辺に続く遊歩道として整備されていたはずだ。
頼むから当たっていてくれと、決して鋭いとはいいがたい己の直感に願をかけ、土屋は石畳を蹴る。
遊歩道の終わりに近いところに生えている大きな樫の木の下に、Jはひとりでうずくまっていた。薄闇の中でも鮮やかな金の髪は、降り続ける雨に濡れたのか鈍い光を弾いている。
抱え込んだ膝に顔を伏せ、頭を抱え込むようにしている姿は見慣れないものだ。
おとなしく、どこか押しの弱い印象を与えながらも、Jはいつだってしなやかな強さを忘れなかった。冷徹な視線で見渡し、すべてを諦めながらもただひたすらに生き抜こうと、ただそのことに執着する、あるいは矛盾を孕むひたむきなしたたかさともいえるもの。それを中核に据えているがゆえに滲むのだろう、何をしていてもどことなく毅然とした、あの空気がない。
大神の許で、意思を持たない人形であることを選択していたときも。烈や豪に囲まれ、困惑しながら新しい世界を徐々に切り開いているときも。土屋と相対しながら、警戒と恐れを押し隠して距離を測ろうとしているときも。
己の選択と行動にすべてを賭ける姿が、いまはどこにもないのだ。
どうかしたのかと、不安に思いながらも脆いその空気をいたずらに乱す気にはならず、できる限り気配を殺して距離を詰めれば、耳朶を打つか細い声。
雨の日は、音がよく通る。木々の葉やら地面やらを雨粒が打つ音と、潮騒と、風の音と雷鳴と。それらに混じって空気を震わせるのは、細い細い、噛み殺された嗚咽だ。声の正体を察し、土屋は言葉も行動も見失い、その場で立ち尽くしていた。
切れ切れに届く、そこに添えられる言葉を、土屋は知らない。
ひたすらに、切に。子供が呼んでいるのだろう相手が誰なのかを、土屋は知らない。
わかっているのは、少なくともいまの土屋に、子供の涙の真意を知ることができないということだけだ。
気づかれることのないようそっと深呼吸をすると、土屋はゆっくりとJに近づいた。大きく枝を張った木の下は格好の雨宿りの場所だったが、葉から滴る雫までを遮ることはできず、風に乗って横合いからやってくる雨粒は、じわじわと子供の全身を濡らしている。
少しだけ悩み、土屋はJの目の前に立った。と、その気配に気づいたのか、Jが勢いよく顔をあげる。
期待と困惑を混ぜ合わせた視線が、縋るように土屋の顔を見つめ、そして絶望に翳った。言葉は何もなく、喉から漏れる嗚咽も止まっていた。ただ、歪められた瞳の淵から涙が零れ落ち、無音のままに絶対の否定が刻まれる。
違う。求める相手ではない。呼ぶ相手ではない。涙を捧げる相手ではない。
悲痛な叫びが鼓膜を切り裂く気がして、土屋もまた、ほんの少しだけ表情を歪める。悲しくて悔しくて、不甲斐なかった。こんなにも傷を曝け出した子供が目の前にいるのに、どうしてやればいいのかがわからない。
噛み締めていた唇を小さく震わせ、Jは顔を伏せた。深呼吸を繰り返すことで呼吸を整え、涙を右手で無造作に拭うそこに、光が走り雷鳴が轟く。
びくりと大きく肩を震わせ、Jは反射的に体を抱きかかえるようにして耳を塞いだ。
「雷が、怖いのかい?」
表情を緩め、土屋はさらにJとの距離を縮めると、その場にしゃがみこんだ。小刻みに震えていた腕がぎこちなくほどかれ、怯えを刷いた透明な瞳が土屋へと向けられる。
「私も、昔は嫌いだったよ。すまなかったね。ひとりで怖い思いをさせて」
もう大丈夫だよ、と、なるべくやさしい声になるよう気を配りながら、土屋はJの俯きがちな頭を軽く撫でる。
「空が明るくなってきたね。じきやむだろうから、そしたら戻って、シャワーを浴びよう」
しっとりと濡れてしまっている上着に気づいて、ポケットから取り出したハンカチで、土屋はJの顔についている、雨とも涙とも知れない水滴を拭ってやる。黙って、ただなされるがままになっていたJの唇がわずかに動くが、言葉は出てこなかった。
言いたいことをなんとなく察し、土屋は眉を八の字に寄せる。
「無理はしなくていいよ。大丈夫、大丈夫だからね」
自分は何も見なかったし聞かなかったと言外に滲ませ、ただ慰めを送る。きっとこの子供は、己の弱っている姿を、まだ信用しきれていない自分に晒したことを、深く悔いているだろうから。
「今度から、雷の鳴る雨のときは、側にいようね」
君が、雷が怖くなくなるまで。
微笑を添えてそう告げれば、Jはようやく張り詰めていた表情を少しだけ緩め、悲しげなはにかみ顔で小さく頷いた。
fin.
忘れていたのに思い出したことが、軽くなった心を満たして沈めていく。
沈み、遠くなってしまった心は悲しいけれど、それこそが子供の真実だから、大人は黙って受け入れる。
受け入れて、でも願うのは、いつかその重みを分かち合うことが出来る日の到来。
白雨 --- 夕立、にわか雨。夏の季語。
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