■ 午睡の時間
 ゆるゆると送る風にあわせて、薄い肩が上下する。軽く身じろぎした拍子にずれたタオルケットをそっと直してやり、土屋は目元を緩めて、ただ単調な手首の運動を繰り返していた。
 よしずを立てかけてあるため、室内に入り込んでくる日差しはごくわずかなものだ。細い縦じまを畳に描くそれらは、まとめて浴びれば噴き出す汗を誘うものの、適度な光を提供するにとどまっている。吹きぬける風を肌に感じると同時に、時おり、縁側のどこかで風鈴が鳴っているのが聞こえた。高く、低く。音程もリズムもまばらながら、その音は清涼感を伴って薄暗い室内を彩っている。
 細く分断された青空を臨めば、太陽が天頂にかかり、わずかに傾きかけていることが知れる。もっとも、一日の中で一番暑いのはこの時間帯だ。特に決まったなにかやるべきことがあるわけでないのなら、いまはただ、のんびりと暑さが少しでも引くのを待つのが懸命だ。



 土屋がはじめに通りがかったとき、Jは確か、縁側よりの畳に座り込んで、蚊取り線香の隣で本を読んでいた。
 それはどちらかといえば分厚目の、ハードカバーに飾られた真面目な内容のもので、土屋がやはりJぐらいの頃、夏休みの課題として読書感想文のために課された内の一冊だったと記憶している。面倒なことこの上なかったその課題には、健全な青少年の育成がうんたらかんたら、とかいう能書きがついていたはずだ。懐かしいというよりはどちらかというとほろ苦い、苦労させられたことを思い出させるそれを家のどこかから出してきたのは、きっと母だ。手持ち無沙汰に、ただ漫然と時間を過ごすことに慣れていないJに、暇つぶしに、とでも思って貸し与えたのだろう。
 真面目に読みふけるあたり、Jの性格をよく反映していると土屋は思う。たとえばこれが、あの元気なカッ飛び少年だった場合、三ページも読み進まないうちに不機嫌な顔をして放り投げるだろう。自分もそうだったと、なんとなくおかしく思い、Jの読書の邪魔をしないようにと、そっと通り過ぎた。


 次に、三十分ほどして戻ってきたとき。Jは本の合間に指を挟みこみ、座っていたその位置から横たわった状態で、浅く寝息を立てていた。
 読み始めてからどのくらいの時間が経つのかは知らないが、ちょうど三分の一ほどを攻略し終えたところのようだ。わずかに眉根が寄っていたのは、暑さによるものなのか本の内容によるものなのか。土屋に知る術はない。
 暑いし、特にやることもないし。
 汗をかけば、ただそれだけで体力を消耗する。ここで一服、昼寝をするのもまたいいだろうと、土屋はしばし思案を巡らせると、足音を忍ばせながらも急いでJの横を通り過ぎ、寝室として使っている奥の部屋から、タオルケットとうちわを持ってくる。
 雨戸の開け放たれた縁側のすぐ脇とはいえ、凪も重なるこの時間帯では、暑くて寝苦しいのだろう。気まぐれのように風が吹き込むたび、表情を少しずつ変えるさまにほんのりと笑みを刻み、土屋は静かに腹の辺りにタオルケットをかけ、横に座り込んでから慎重に本に手をかける。
 焦ることなく、ゆっくりと。起こしてしまわないよう、ただそれだけに気を配りながらページの合間から子供の細い手を引き抜き、そっと畳に下ろす。なにか、しおり代わりになるものも持ってきておくべきだったと考えながら、代替品を求めて視線を巡らせれば、下からぼんやりと呼びかけられる。
「はかせ?」
 いまひとつ焦点のあっていないJは、薄っすらと瞼を持ち上げたまま、わずかに首を傾げてからもぞもぞと体を動かす。起き上がろうという流れを読み取り、土屋は、しおり探索は後に回してその肩をやんわりと押さえた。
「寝ていていいよ。暑いしね。昼寝をしよう」
「でも――」
「いいから。ほら、君が寝ちゃうまであおいでいるから」
 抗議を紡ぎかけた声を遮って、右手でうちわを動かし、左手であやすようにタオルケットの上からぽんぽんと軽く叩いてやれば、Jは二、三度の瞬きを残して、そのまま睡魔の手に絡めとられていく。


「はかせ」
「なんだい?」
 寝入ったかと、落ち着いたリズムを刻む呼吸にそっと左手を離してみれば、落ちそうになる瞼をなんとか持ち上げたJが、再び声をあげる。眠りたくないというのを眠るよう強制するわけにもいかず、かといってここであまり過敏な反応を示し、眠りかけているところを起こすわけにもいかず。さてどうしようかと考えながら、どこかたどたどしくすらある口調に合わせてゆっくりと言葉を返せば、Jは上目遣いに問いを送ってくる。
「はかせも、おひるねですか?」
「そうだね。そうしようかな」
 否定はせず、どちらかといえば肯定に近い言葉を紡ぎながら、本当にどうするかとぼんやり考えていた土屋に、Jはゆるりと口元を緩める。
「じゃあ、ねるとき、おこしてください」
「ん?」
「ボクが、あおいであげます」
 届いた言葉に虚を突かれ、思わず目を見開くだけで、土屋はテンポよく返答ができなかった。じわじわと脳髄にしみこんだ言葉は、タイムラグをおいてから、実感を伴い血流に乗って全身を巡る。眠りに落ちかけているその淵で必死に踏みとどまり、じっと返答を待って見つめてくる蒼い瞳に、土屋はただ沸き起こるに任せた微笑みと言葉を向ける。
「ありがとう」
「やくそく、ですよ?」
「うん。ぜひ頼むよ」
 呼気に乗せられた言葉に返した一言は、返答を得ることはなかった。ただ、こくりと頷いた子供の瞼が完全に落ち、ひとつ、深い呼吸が空中に逃される。



 のんびりと過ぎ行く時間。その狭間で眠る子供の横に、やはりごろりと横たわり、うちわを使って風を送り続ける。寝苦しくないように。寝冷えなどしないように。あたたかな思いを込めて、涼やかな風を送り続ける。
 頭の片隅にあるのは、判然としない光景と音声。断片的に残る己の思い出の中に、先の自分たちのやりとりと酷似したものを拾うことができる。
 まとわりつく熱気になかなか寝付けずにいると、決まって隣から風が送られてくる。そして、ずっとあおいでいるから、寝てしまえばいいと促されるのだ。のどかで穏やかでやさしい時間の断片を、土屋は大切な思い出だと思っている。だから、同じものを、今度は自分が残してあげる側になりたいと願う。やさしい気持ちならば、いつまでもどこまでも、人と時をまたいで、連綿と続けばいいと思うから。


 風が、先ほどよりも確かな力強さをもって吹き込んでくるようになってきた。凪の時間が、終わろうとしている。
 鼓膜を打つ規則正しいひそやかな寝息と、時おり響く涼やかな風鈴の音に、土屋はあくびを噛み殺した。
fin.
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 悲しい原体験はたくさんしただろうから、やさしくてあたたかな原体験を。
 いつか彼が大人になって、ふとしたときに思い出して、そして同じようにやさしくてあたたかな原体験を、誰かに与えてあげられればいい。
 そんな時間を見てみたいと、願いながら揺り起こす遠い日の思い出。

 午睡 --- 昼寝。

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