■ 夢に泣く
 それは、とてつもなく奇妙な感覚だった。
 目の前には、オフホワイトのカーテンの揺れている小さな窓があり、その向こうはには青空が広がっている。青空の下には芝生と遊歩道と花壇があり、ときどき木がそびえたっていた。芝生にも遊歩道にも、ちらりほらりと人影がある。ああ、気持ちよさそうだなあ、と、のんきなことをただひたすらに思っていた。
 ふと、音を拾っていなかった聴覚が唐突に機能を取り戻した。ざわりと梢のざわめく音がする。すぐにやむかと思ったそれは、なぜかだんだんと重なり合って、絶え間ない波となって聴神経を刺激し続けた。それが人の泣き声なのだと知ったのは、窓の向こうから視線を戻したところに、あの人を見つけたからだった。


 真っ白いベッドの中で両目を閉ざしているその頬は青白く、唇は紫色で。誰に告げられたわけでもないのに、ぼんやりと悟る。この人は、もう目を覚まさないのだ。
 震える声がいくつも重なって、「かわいそうに」とか「大丈夫だよ」とか、そんな類の言葉を投げかけてきた。気遣われているんだな、と思い、「ありがとうございます」とだけ返してみる。その言葉を紡ぐ声があまりに淡々としていて、それがかえって涙を誘うのか、彼らはいっそうひどく泣き崩れていった。
 何をすればいいのか、どうすればいいのか。わかっているはずなのにわからなくて、動くことの出来ない体を取り囲む世界は、それでも確かに動いているようだった。別れのための儀式が着々と進んでいき、より多くの人の涙に遭遇した。知った顔も知らなかった顔もあり、あの人が本当に多くの人に愛されていたことを知って、それがとても切なかった。
 あの人のことをほとんど何も知らないままだった自分が、まるで世界中から仲間はずれにされたようで、哀しかったのだ。


 泣くことの出来ない氷のような双眸の向こうで、あの人は一筋の煙になった。手元に残されたのは、骨と灰だった。首が痛くなるほど見上げて、頭に乗せられる手はがっしりと大きくて、抱きこんでくれる胸はとてつもなく広かった。それなのに、残されたのはちょっとした大きさのつぼにすっぽりと収まってしまうぐらい、わずかな炭素とリン酸カルシウムだけだった。
 連れて行かれた場所であの人の名残は土に帰る。あの人が最後に行き着く場所はこの星であり、自分の許ではない。当たり前だろうその事実が妙に重たく感じられて、悔しくて地面を睨みすえることしか出来なかった。
 それでもやはり、涙だけはどうしても流れなかった。


 泣けないのではなくて、泣かないだけなのかもしれない。哀れみをもって注がれていた視線は、いつしか奇妙なものを見るようなものになっていた。それはそうだろうと思う。
 あんなに、傍目に見てもあからさまなほどに可愛がられて、大切にされて、愛されていた。なのに、その存在の喪失に遭遇しても、涙を流すどころか表情を揺らすこともない。いつもとなんら変わらない態度で、いつもと同じように時間を見送る姿はきっと、ひどく場違いなものだったろう。
 冷たい子なのだ。冷酷な子なのだ。あんなに可愛がられていたのに、誰よりも大切にされていたのに、涙のひとつも流さないなんて。
 あからさまに放り投げられた言葉に、反論するだけのものは何も持っていなかった。泣こうと努力すれば、涙のひとつやふたつ、流せる自信はあった。それでも、それは何か間違っている気がして、向けられた言葉を甘受することしか、選択肢はなかった。


 あの人はいなくなったけれども、時間は当たり前に流れていった。はじめは戸惑いを見せた周囲も、あの人のいた場所をそれぞれに埋めて、当たり前の時間を取り戻していった。
 何の狂いもなく、滞りなく進む時間の中で、それでも、どうしてもあの人の喪失を感じることは出来なかった。あの人がいる気がして振り向くのではなくて、いなくなる前といなくなった後と、その違いが見出せなかった。
 当たり前のようにあの人の存在そのものを忘れて生きている自分が、そこでは自然に呼吸をしていた。



 緩やかに覚醒していく意識に従い閉ざしていた双眸を開けて、Jは真っ暗な天井を認識した。やけに冴えてしまった眠気に少しだけ眉をしかめ、右手を持ち上げて目元を覆う。腕のぬくもりと重みに閉ざされて奪われた視界は、それでも、奇妙な落ち着きのなさを与えるだけだった。
 しばしの逡巡を挟み、Jはベッドから足を下ろした。ひどく空虚な感覚を持て余しながらドアをそっと開け放ち、廊下に出て思わぬ涼しさに身震いをひとつ。足音が立たないように気をつけながらも、進む方向に迷いはない。
 辿り着いたその先にもしもいなかったら、という仮定は考えもしなかった。その先にいたとして、ふらりと脈絡もなく尋ねるのは迷惑だろうと、いつもなら考えの及ぶ気遣いに掠りもしなかった。明かりの落ちた真っ暗な廊下を手探りで進み、非常灯によってうっすらと緑に照らされた廊下に足を踏み入れる。
 わずかに目を上げた廊下の先には、扉の隙間からこぼれる、乳白色の光があった。


 到達したそのドアを開ける勇気は、しかし、Jには湧いてこなかった。扉の真向かいにあたる廊下の壁に背中を預け、しゃがみこんで息を殺す。気配を殺して神経を尖らせ、扉の向こうの光の中、見えない姿を視ようとする。ほんの微かにでもそこに人の気配を感じられたら、安心して眠りなおすことが出来る気がしたのだ。
 とくとくと胸郭を打つ心音は、いつもよりも若干速い気がした。足裏から這い上がる寒さにぐっと背を丸め、瞼を強く閉ざしてただ気配を探る。と、Jは自分を包む真っ暗な世界が不意に眩い光に染め上げられたのを感じ、慌てて顔を上げた。
「……Jくん?」
 視界に飛び込んできた光は刺激が強すぎて、反射的に細めた目線の先に、驚いたように眉を跳ね上げている見知った所員の声が響く。続けて室内から、ありえない名前が紡がれたことに反応した声がいくつか響き、ひとつの足音が慌て気味に近寄ってきた。
「Jくん? どうかしたのかい?」
 Jの真向かいで消えた足音は、その頭に乗せられた大きな掌と、しゃがみこんでくれたのだろう下から響く声に取って代わられる。
「どうしたんだい? 怖い夢でも見たのかい?」
 心配そうな声音で、それでも包み込むぬくもりを持ってやわらかく発された言葉に、Jは堰を切ったように涙が溢れ出すのを感じた。土屋だけでなく他の所員たちもいるということは、もはや眼中になかった。ぼろぼろと流れ落ちる涙も、絶え間なく響くしゃくりあげる声も。取り繕うことなく、ただ流れに身を任せる。


 突然のことに驚いたためだろう揺れた気配は、そのままふわりと和らいで、Jのことをすとんとその胸に抱き込んでくれた。ぐっと後頭部に回された手はやさしくも力強く、もう片方の手はとんとんと穏やかに背をさする。
「怖い夢だったのかい?」
 問いかけには答えないまま、シャツなのか白衣なのかはわからないが、土屋のにおいのする暖かい布地をJは必死に握り締める。
「大丈夫だよ。大丈夫だからね」
 囁かれる声に、目が覚めてからずっとわだかまっていた不安の正体を思い出し、Jは小さな子供のように声を上げて泣いた。
 夢でよかった。あれが夢でよかった。
 彼を喪ったらばきっと、心が壊れてしまって、泣くことなどできないだろう。
 それほどまでに、土屋はJの中で根を張った存在になったのだ。かつて喪ったあの人たちと比べることなど考えも及ばないぐらい、深く心に根ざした存在になったのだ。それゆえに、改めて思い出した夢が怖くなった。喪う瞬間をまざまざと思い描き、それが怖くなった。
 何度も何度も土屋のことを呼びながら、Jは不安を掻き消すために泣いた。抱きしめてくれる胸に縋って、ひたすらに泣き続けた。
fin.
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 得るものが大きいほどに、喪う瞬間は壮絶な痛みを伴うのだと。
 知っていればこそ恐怖が募る、不安でたまらない最悪の夢。
 夢にそれを見ることは、皮肉かな彼を深く愛していることの裏返し。

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