■ ノスタルジア
 君に見せたかったんだよ、と言った。
 喜んでもらえるんじゃないか、と言っていた。
――この人は、自分のことをどこに連れて行こうとしているのだろう。
 いったいなにを言われているのか。頭の中が真っ白になって、次に浮かんだのは。
 やさしい言葉に対する、底知れない疑念だった。


 八月ももう終わろうというある日、唐突に泊りがけで出かけると告げられた。
 では自分は留守を預かるのかと思い、どのぐらいの期間なのかと問うたら、君も行くんだと付け加えられた。なんでも、先ほど取り次いだ電話の相手は土屋の母親だったとのこと。
「君のことを、どうやらその、いろいろ勘違いしたようなんだよ」
「はあ」
「それで、絶対連れて来いって、日にちまで指定されてしまってね。こちらが今の時期はそんなに忙しくないことは知られちゃっているから」
 もごもごと言葉を探して口ごもる土屋の姿は、すでに見慣れたものだった。自分が相手の言動や行動にろくな反応を示さないと、大概はこうやって口ごもり、困ったように淡い苦笑を浮かべる。いつもならばこちらもあいまいな笑みを浮かべて流すのだが、今回ばかりはそういうわけにもいかないだろう。
「ご実家に、お帰りになるんですね?」
「そうだよ」
「なら、お戻りになるのをまっています」
「え? あ、いや、だからね」
 状況を整理しようと問い返してみれば、土屋はほっとしたように首肯して、続けられたくだりに慌てて両手と首とを横に振る。
「だから、君の了承も得ないまま勝手に決めてしまって申し訳ないんだが、一緒に来てほしいんだよ」
「これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきません。別に、一人でも事故など起こしませんので」
 どうぞ心置きなく。子供を単体で残すのが不安なのかと思い、別に気にすることはないというつもりで返した声は、やけに冷ややかだった。
 一瞬ぎょっとしたように目を見開き、土屋はやっぱり困ったように微苦笑を浮かべる。声のトーンはもう少し緩めにしておくべきだったらしい。失敗したと思うが、いまさら、後の祭りだ。
「君は、何かこっちにいたい理由があるのかい? 予定があるとか」
「特に何もありませんが」
「じゃあ、頼むよ。何もない田舎だけど、きっと気分転換にくらいなると思うから。どうだろう?」
 こちらの内心を知ってか知らずか、土屋はなんら気にした風もなく、とりなすような声で続ける。面前で手を合わせられ、頭まで下げられては断るすべもない。
 結局、なんだかんだとなし崩しで、Jは養い親の帰郷につきあうこととなったのだ。



 土屋の実家は、古い造りの日本家屋だった。
 どちらかというと鉄心にテンションのよく似た土屋の両親は、Jのことを見るなり、実の息子は放ったまま家の中へと招き入れ、冷たい麦茶やらスイカやらをふるまってくれた。
 げんなりした様子の土屋に、荷物を片付けておいでと部屋に案内され、ちょっと待っていて欲しいとのこと約一時間。再び現れた土屋は、やはりどこか憔悴していた。どうしてこんな生真面目な人が、鉄心のようなどこもかしこも掴み所のない人間と付き合えるのかと、大神と鉄心の関係とはまた別の次元で疑問を感じていたJだが、その点についてはなんだかわかった気がしていた。
 もっとも、いまの疲労はそれとはまた別のところに起因しているはずだ。ただでさえ、自分のような得体の知れない人間の素性を説明するのは骨が折れただろうに。


 冷えた麦茶を受け取って、二人で一息ついて。他愛のない会話は、けっきょく堂々巡り。わかっているのは、自分はこんな所にいていいはずがないということだけだ。
 帰郷とは、読んで字のごとく、ふるさとに帰るということ。
 彼のふるさとにいる自分は、明らかに異分子だ。何をもってというわけでもなく、普段以上に肌からじわじわ染み込むその実感が虚しかった。部外者ではないと言ってもらえるのは、抑えきれない猜疑心や違和感、それから確かに存在するむずがゆいほどの嬉しさとでごちゃ混ぜの気分だ。どうすれば割り切れるのかも、どうすれば気持ちを整理できるのかもわからない。あいまいな笑顔と素知らぬふりで、通り過ぎるだけ。
 やさしくされればされるほど、甘えていいのだろうかという淡い期待が湧きあがる。それは身の程知らずの傲慢だと、心はますます重くなる。


 話題を変えることで、重苦しい空気を打開するつもりだったのだろう。土屋は唐突にJの頭を軽く叩き、祭があるのだと笑った。いったい何を言わんとしているのかが掴めず、Jはは目つきが思わず鋭くなるのを自覚していた。どんな言葉の裏にだって、何が潜んでいるかわからない。そう思って警戒したのに、見せたかったのだと、土屋は実にのんきな答を返してくる。
 本音なのか建て前なのか。相手を常に疑ってかかることしかできない自分は嫌いだった。
 この人は何を言っているんだろう。
 自分をどうしたいんだろう。どこに連れて行くつもりなんだろう。
 わからないわからない。
 混乱している自分に、土屋はにこりと笑いかける。続けられたもの珍しい単語に興味を移しながら、Jの内心は出口を見つけられずにぐるぐると回り続ける。わかっているのは、彼がやさしいということと、彼のみせてくれるものがどこか懐かしいということ。
 遠雷が聞こえる。二人で見上げた空には、巨大な入道雲。
「一雨来れば、だいぶ涼しくなるよ」
 穏やかな声もちらりと盗み見た横顔も、やっぱりやさしくて、どこか懐かしい。


 謝りたかった。
 やさしくてあたたかいあなたに、ボクは猜疑心を抱かずにいられない。
 それなのに結局できたのは、彼に気づかれないようにそっと、息を逃すことだけだった。
fin.
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 振り向き、そして手を伸ばす。
 届きたいのに、触れたいのに、掴みたいのに。
 掴めなくて、触れられなくて、届かなくて、ただ懐かしくて。

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