■ 遠雷
じっとりと肌にまとわりつくような熱気と湿気を、潮の香りをほのかに含んだ風が運び、そして連れ去っていく。
中庭に面した縁側へ続く障子を開け、土屋は左手奥に目当ての人物を発見して小さく息をついた。気配に敏い彼は、普段ならごくごく小さな物音にも過敏に反応しがちだというのに、いまはただ、のんびり庭を眺めて縁側の柱に身をゆだねている。
片手で器用に障子の隙間を広げると、土屋は一歩、足を踏み出した。古い造りの家だ。きしりと音を立てて床がしなり、それに気づいたのか彼はゆるりと首をめぐらせた。
「博士」
「ああ、失敗したな」
気づいていなかったみたいだから、脅かそうと思ったのに。
ぽつりと落とされた呼びかけに対し、軽い口調で少しいたずらっぽい表情を浮かべてみせると、彼ははにかむような笑顔を返してくれた。
立ち上がろうとするのを片手で制し、すぐ隣まで進んで腰を下ろす。
「喉は渇いていないかい?」
「ありがとうございます。いただきます」
汗をかいたグラスの載っているお盆を示すと、彼は少しだけ笑んで素直にそれを受け取った。残ったグラスを口元に運び、並んで冷えた麦茶を喉に流し込む。
「悪かったね、Jくん。急にこんなことになって。疲れさせちゃっていないかな?」
二人して一息ついたところで、土屋はようやく本題を切り出した。軽く視線を下に向けると、グラスを両手で包み込んだ少年が振り仰いでくる。
「そんなこと、ないです。ボクのほうこそ、本当にご迷惑じゃありませんか? その……」
「とんでもない。あの反応を見て、どうやったら迷惑だなんていえるんだい? むしろ、とても助かってるよ」
Jの言いさした言葉を遮り、土屋はにっこりと笑いかけてみせる。何かを思案しているらしい表情を浮かべていたJは、その笑みを見て、詰めていた息を少しだけ吐き出す。
「ですが、ボクはまったくの部外者です」
残りの呼気に乗せた声が、苦味を帯びるのは禁じえなかった。
無表情を装いたかったのに。
内心眉をしかめながらも、Jの表情は動かない。整った顔立ちの中で、表情の読めない大きな瞳がじっと土屋を見つめている。
「歓迎されたということは、そうじゃないっていうことだよ」
「そうでしょうか?」
あくまで疑問符を伴って小さく返される言葉は、猜疑心ゆえというよりも自己に対する評価の低さゆえなのだろう。ふいと逸らされてしまった視線に、土屋はどんな言葉を選べばわかってもらえるかと、ここ一ヶ月ほどですっかり馴染みになってしまった思案に暮れる。
Jとの出会い方は、最悪の形だったといってもいいだろう。それでも、彼が大神と決別したあのレースをきっかけに一緒に時間を過ごすようになって、少しずつではあるものの相手の考えていることを理解できるようになってきたと思っている。表情の変化が乏しいのも、口数が少ないのも、決してこちらが嫌いだからというわけではない。彼は彼で、必死にあがいてもがいて、戸惑っているのだ。
無表情ではいけないと察したのか、笑顔を浮かべてくれるようにはなった。ただ、それがあくまで仮面でしかないことは明白だ。単調な生活の中でもそれなりに凸凹はあって、緊張感と警戒心だけではない対応を見せてくれるようにはなってきた。だから、そのまま打ち解けてくれるかとも思ったが、未だぎこちなさは抜けない。
もう半歩でもかまわない。まずはJの一番近くにいる大人たる自分が、彼の警戒領域をもっと狭める必要があるだろうと、土屋はそう感じていたのだ。
重く澱んでしまった空気を打ち破るように、土屋は唐突に隣に座るJの頭をぽんぽんと軽く叩いた。ぴくりと身を竦ませ、それから目を大きく見開いて自分を見上げてくる子供に、土屋は笑いかける。
「明日は近所の神社で大きな祭があるんだよ。君の事を早く連れて来いってせっついたのも、それに間に合わせたかったからだと思うんだ」
「……どうして、ですか?」
話題をいきなり変えられたことに、何かしらのうさんくささでも感じたのだろう。Jは、土屋の目の奥を覗き込むようにして視線を合わせてきた。どこか鋭さを含むその視線に晒されると、言葉の裏にある思惑ばかりか、自分の中身をすべて見透かされてしまいそうで、後ろめたいことなど何もなくてもどきりとしてしまう。
「君に、見せたかったんだよ」
問いに対する答は、Jの予測を外れたところに合ったらしい。ぱしぱしと目をしばたかせ、きょとんとした表情を浮かべている。
偶然が重なり合った結果だった。
たまたまあの日、母親が研究所に電話をしてきた。それを取ったのがJだった。電話を代わってみれば、Jの立場を早合点した彼女はさっさと日取りを決め、絶対につれて来いと脅迫をかけてきた。何とか事情を説明しようとの試みは、ここ数年、法事を散々すっぽかしてきたことといまだに独身という弱みを攻撃されてはなすすべもなく、こうしてなしくずし的に、Jを伴っての帰郷と相成っている。
結婚をしたこともない自分が子供を養っているとか、その子が明らかに日本人の外見ではないとか、そういうことは全く気にならなかったらしい両親に説明をすること約一時間。聞く耳すら持たない二人からの質問攻撃をなんとかかわしながら概略を飲み込ませ、こうして縁側まで避難してきたわけなのだが。
「見せたかったんですか?」
「うん。私も見てほしかったからね。ちょうどよかった」
「なんでですか?」
「きっと、喜んでもらえるんじゃないかと思ったからだよ」
大人の言葉の裏にある本心を探るように問いを重ねていた少年は、知らない言語でも聞いたかのように黙り込んでしまった。そんなJに、土屋はやっぱりにこりと笑いかける。
「昔からある祭だからね。そんなに派手な面白さはないけれど、屋台も出るし。舞の奉納と花火はけっこうな見物なんだ」
「まいの、ほうのう?」
耳慣れない単語に、興味が移ったのだろう。いぶかしげな表情で繰り返したJに、土屋は簡単な説明をはじめる。
いつもよりも会話が長続きする。彼から質問をしてくれる。それも、好奇心ゆえに。
よかったと、土屋は内心安堵する。
環境を変えることは、膠着状態に入ってしまったJとの距離を縮めるための、半ば賭けだったのだ。まだ終わってはいないが、ひとまずは成功だろう。
連れてきてよかった。この帰郷で、半歩前進の目標は達成できるかもしれない。
ごろごろと、空の向こうで音がする。
「雷?」
「ああ、夕立かな。一雨来れば、だいぶ涼しくなるよ」
二人して見上げた空には、巨大な入道雲。暑さを運び、それを連れ去る風は遠雷を運び、やがて雨をつれてくる。
fin.
鳴り響く、鳴り響く。
遠く空の彼方、雲の向こうで鳴り響く。
それは嵐の予兆。それは変化の前兆。
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