■ 夜明けの晩に
「何をしているんですか?」
学校から帰宅したJが見たのは、いつもならほとんど研究室にいる所員たちが、そろって食堂やらミーティングルームやらに座り込み、必死の形相でナイフを握り締めている姿だった。
「ああ、おかえり」
シュールな光景にJが半ば唖然としていると、入り口付近にいた一人の所員が気づいて顔をあげた。そこから波及して、室内から次々と帰宅を迎えるあたたかい声がかけられる。ひとつひとつに律儀に答えながら、Jはもう一度、同じ問いを繰り返した。
「なにごとですか?」
「ああっ!!」
こんどの返答は、実に切ない悲鳴だった。音源では、一人の所員が机に突っ伏して大袈裟になにかを嘆いている。事態の把握が追いつかずにおろおろとしはじめたJに、机の横で笑っていた所員がひょいとなにかを持ち上げる。
「ハロウィンだよ!」
ほらほら、と抱えあげられたのはくりぬこうとして失敗し、穴の開いたかぼちゃだった。
「なんでもFIMAも合わせて、町内で大きなハロウィンイベントをすることになったんだって」
「で、単なるパーティーやレースだけだと、あまりにありきたりで味気ないだろう?」
「だから、せっかくのハロウィンだし、スタンプラリーみたいにポイントごとにお菓子をねだって回ってもらうことになったらしいよ」
「もちろん、ここはポイントだからね」
そこに便乗して、派手に飾り付けて楽しむことにしたのだ、と。
もともと子供好きが高じてこの職についたという経歴の多い所員たちは、こういったイベントが大好きだ。なにかあるたびにイベントに仕立て上げ、子供たちを驚かせては楽しんでいる。
「仕事はよろしいんですか?」
「いいんだよ。今日だけ、特別」
なにもかぼちゃに限らず、お菓子を個別に包装している所員もいれば、クラフト作成に勤しんでいる所員もいる。きっとこの調子では、研究室にも土屋の書斎にも、どうせ誰もいないのだろう。水を差すようであるがと思いつつ、ありきたりな質問を投げかけたJに答えたのは、いつの間にか背後に立っていた土屋だった。
「博士、ありましたか?」
「ネットだと、あまり細かいのはさすがになかったよ。でも、デニスさんに聞いてきたから」
その姿を認めたかぼちゃ組から声がかかれば、土屋はひらりと一枚の紙を示す。おおっと歓声が上がり、紙はあっという間に奪われてしまった。
「なんですか?」
「ジャック・オー・ランタンの作り方ガイドをね」
あまり日本では定着していない行事のため、定番のかぼちゃ提灯を作るに作れなくて苦戦していたらしい。そこで、資料を探しに電脳空間をさまよい、けっきょく本場の人間に助けを求めたのだ。
アドバイスに従いながらさっそくかぼちゃをくりぬき始めた所員たちは、まるで子供のようにきらきらしている。
「さ、われわれはみんな、今日はここで作業をしているから」
君はまず着替えておいで、とやさしく肩を押され、Jは素直に自室へと向かった。
やることも特になかったし、今日はいつものような手伝いはない。なんとなく手持ち無沙汰だったJは、着替え終わるとけっきょく、土屋や所員たちと共にハロウィンの飾り作成に精を出す。
「さすが、器用だねえ」
「そうでもないですよ」
ナイフを使うのは危ないから、と過保護で心配性な保護者がいい顔をしなかったので、Jはペーパークラフト班に配属。その土屋は、真剣な表情で小さめのかぼちゃと格闘中だった。実はあまり手先の器用でない土屋を知っているから、怪我をしやしないかと心配で、Jは時折そちらをちらちらと見やる。
かぼちゃがいくつも繋がるタイプの飾りを仕上げれば、立体的なこうもりを作り上げ、飾り付けに向かうべく通りがかった所員に目を細められる。その彼とて、相当に器用だ。
出来上がった作品たちは、さっそく玄関をはじめとした至る箇所にとりつけられる。研究所が、あっという間にオレンジと黒に染まっていく。
騒がしいのはあまり得意でないが、こういった雰囲気は嫌いではない。やさしく穏やかで、ふんわりとした空気に、全身が満たされていく。
だけど、ハロウィンはあまり好きじゃない。
次の作品に取りかかりながら、Jは心の隅に染みがあるのを自覚する。
――異形のものが入り混じる、ありえない夜がやってくるの。
ジャック・オー・ランタンに灯を入れて、悪霊を追い払うのよ。
さあさ、楡は、ハシバミは、ヒイラギは?
悪い魔女からあなたを守ってもらわなきゃ。
ろうそくの灯を忘れないで!
あなたに会うために、天に召された霊たちが帰ってくるのよ――
懐かしさすら感じられない、霞んだ記憶が脳裏をよぎる。
誰の声だっけ。どんな音色だったっけ。あまりにも断片的すぎて、そんなことすらわからない。これは本当に、自分の記憶なのだろうか。
静かな心で失った日々に目を向けられるほど、まだ大人にはなりきれない。だから、擦り切れてぼろぼろになった、一番古い記憶を彷彿とさせるイベントは、嫌いではないけど少し苦手だった。特にハロウィンは、その持つ意味があまりによろしくない。
追憶にふけり出すときりがないことはよくわかっている。ひとつ頭を振り、Jは目の前のクラフトに神経を傾ける。
「ハロウィンは、日本で言うところのお彼岸の要素も含むんだってね」
「そうなんですか? お菓子をもらうってことぐらいしか知りませんでしたよ」
「トリック・オア・トリート、だね」
所員たちの他愛のない会話が、黙々と手を動かすJの頭上を通り過ぎていく。終始浮ついた雰囲気のまませっせと作業を続けた食堂は、終業時刻には過剰なほどのハロウィングッズで満ち溢れていた。
慌てて片付けて食堂を普通に使える状態に戻し、所員たちを見送る。夕食をはさんですべての片付けを終えたJと土屋は、リビングで暖かいココアとコーヒーをそれぞれ片手に、ほっと息を吐く。
「すっかりハロウィン仕様だね」
「ちょっと、作りすぎましたね」
玄関や廊下を飾るだけでは余りすぎてしまったため、リビングや食堂、ミーティングルームもかぼちゃとこうもりの餌食になっている。ソファにのびながらカーテンレールに絡みつくペーパークラフトを見やり、土屋とJは微苦笑だ。
「ああ、そうだ。これを」
ふと思い出したように、土屋はキッチンの机から何かを持ってきた。
「……飾っておかなくていいんですか?」
土屋が必死に作り上げていた、ジャック・オー・ランタンだった。小ぶりのかぼちゃは手のひらサイズで。彫られた顔は、恐ろしいお化けというよりも、どこか情けない、やさしくかわいらしい雰囲気を醸し出している。他の飾り付けようのかぼちゃ同様、実際にろうそくを入れていると管理が大変だからと、マシン用のライトをちょっといじって入れてある。これならスイッチひとつで明かりがつくし、燃えてしまう心配もない。
「君の部屋にでも、置いてくれるかい?」
「くださるんですか?」
きょとんとしながらもとりあえず受け取り、Jは土屋と手の中のかぼちゃを交互に見やる。殺風景な部屋には確かにありがたい装飾だが、土屋の真意が見えない。
「作り方を調べているときに、それは悪霊払いと同時に道標だって書いてあるのを見てね」
穏やかに微笑んでいる土屋は、かぼちゃと同じく、どこか切ないような情けないような空気を漂わせている。
「そもそもハロウィンの夜は、悪霊たちが地上にやってきて子供をさらっていったり横行したりするんだとか」
古代ケルト民族のお祭りはそういう意味だったらしいね、と説明口調の土屋に、Jは小首をかしげておとなしく先を待つだけだ。
「だから、君がさらっていかれないように。悪さをされないように」
――悪い魔女からあなたを守ってもらわなきゃ。
あたたかな声に、Jは思わず息を呑んで目を見開く。その様子をかぼちゃと一緒に眺めながら、土屋は迷いと苦味をわずかににじませた、深くやさしい声を続ける。
「それと、君の元を訪れたいと思う霊が、道に迷うことがないように」
――天に召された霊たちが帰ってくるのよ。
――あなたに会いにくるのよ。
土屋の声に重なる、誰かの声。これ以上はないぐらい見開かれる自分の瞳を、Jは人事のように感じていた。
ああ、この人は自分が隠せたと思っていた表情のわずかな変化に、きちんと気づいていたのだなと、そう思う。
困らせてしまったのだ。自分が過去を思って心が沈むときは、いつだって彼はきちんと気づいて、複雑な表情で必死に手を差し伸べてくれる。やさしくぬくもりを与えてくれる。
寂しくないように。辛くないように。悲しくないように。自分が過去を思うことを許容して、その上で前を向けるように力を貸してくれる。すべてを受け入れてくれる。自分を思ってくれる。
いま隣にいてくれる人は、そういう人だ。
少しずつでいい。この人と過ぎた時間を分け合えれば、こんなに困った表情をさせなくてすむだろうか。静かな心で過去に向き合えるだろうか。
「会いにきて、くれるでしょうか?」
ゆるりと目を細めてうつむき、Jは手の中の、情けない顔のかぼちゃを撫でた。
「きっと、来てくれるよ」
安堵と驚愕の入り混じった声音を隠そうともせず、土屋は穏やかに返した。Jがこんなに穏やかな表情で、自分から失った時間を含ませた発言をするのは、土屋の記憶する限り初めてだったのだ。
「ありがとうございます。窓辺においてみます」
「そうだね。きっと、そうしたら見えやすいね」
膝の上にかぼちゃを乗せて、Jはこくりと、ぬるくなってしまったココアを飲み込んだ。
fin.
喪われてしまったあの人たちも、今宵は帰ってきてくれるだろうか。
いつもそうだろうけれど、今夜だけは特別だから、もう少しだけ、重ねるのを許して欲しい。
あなたのぬくもりを通して、もはや触れられないあの人たちを思い出すのを、許して欲しい。
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