■ ウィンター・グリーン
「人は、触覚よりも聴覚で、聴覚よりも視覚で情報を得るんです」
 触覚からの情報は一秒当たり十の二乗ビット。聴覚からは四乗で、視覚からは六乗。それぞれ百倍ずつ。だから仕方がないし当然のことなのだと笑うJは、どこか諦念を滲ませながらも哀しげな表情だった。
 無論、それは嬉しくなどないだろう。見かけだけでその人の内面の何がわかるというのか。こと人間性において、髪の色も瞳の色も肌の色も、何ひとつ反映などしないというのに。
「こんなに綺麗なのにね」
 稀有な色合いであることは確かだが、その色合いこそが彼の顔立ちやら雰囲気やらにあいまって、さらに魅力的な要素を構成しているのに、それがわからないとはなんとももったいないことだ。ため息をひとつこぼしてにこにことあくまで動じた様子のない子供にようやくテンポを合わせた土屋は、とたんに弾けた笑い声に、きょとと瞬きを繰り返す。
「どうかしたのかい?」
「ええ、そうですね。じゃあ、博士には特別に教えて差し上げます」
 本当に心底不思議そうに見つめられてしまっては、Jには抗うすべなどない。目尻に滲んだ涙を拭い、いたずらっぽく笑いながらマグカップを思わず机に戻してしまった土屋をまっすぐ見つめる。
「前は、すごく不愉快でたまらなくて、だから外に出るのが嫌だったんです」
 誰か他人と触れるのはこの上ない苦痛で、いっそ何を言われても何も感じないように、自分からたっぷり距離をおいて、なるべく関わらずにいようとしていたのだ。それこそ、まるで人形のように振舞うことは自ら望んだ選択でもあった。傷つかないために。


 辛そうに眉根を寄せた土屋は予想通りで、Jはやわらかくはにかんでみせる。
「でも、考えが変わったんです」
 いつからだと思いますか、と問いかけても、土屋は難しい表情で唸るだけだ。あまりいじめても仕方ないと思ったし、土屋がJが思っていた以上に重たくこういった類の蔑視を受け取っていたらしいことは十分に理解できたので、返りそうにない答にはさっさと正答を明かすことにする。
「豪くんたちは誰も気にした様子がないし、博士も、研究所の皆さんも、博士のご両親も、驚きはしてもそれ以上の反応がなくて」
 拗ねてひねくれていじけているのが、いつの間にか馬鹿らしくなってしまったのだ。
「勘はいい自信があるんです。隠されたり取り繕われたりしていたなら、それなりに気づけたと思うんですけど」
 あまりにもそれまでと違った対応を取られて、自分の勘を信じられなくなりもした。そういうものなのだ、と、自分なりの定義があったのに、誰もがそれと外れた行動を取るというのは、なんだか自分が異星人にでもなったような気分がして妙な感じだった。
 いま思い返せば、その妙な感じこそが、少しずつの変化への契機だったのだが。
「どうしても確認してみたくて、豪くんに鎌をかけてみたことがあるんです。そうしたら、どんな反応が返ってきたと思いますか?」
「どんなふうに鎌をかけたんだい?」
「ボクみたいな色合いの人間は、気持ち悪くないのか、と」
「それは、君……」
 そんな質問は、鎌をかけるとは言わない。直球勝負の質問だ。


 確かに、あの少年相手にはそのぐらいのストレートさがなければ言わんとしていることが通じないかもしれないが、それにしても、あけすけすぎやしないか。
 話の本筋から逸れることは覚悟の上で、土屋は疑問を呈してみた。だが、Jは笑って「そんな豪くんだからこそ、一番素直な反応と本心が聞きだせると思ったので」とどこ吹く風だった。
 引き取った当初のぴりぴりと張り詰めた状態よりはよほどいい、しなやかで強靭な精神状態を獲得してくれたものだと感心する一方で、少し我が道を行き過ぎる性格に育ててしまったかな、と、教育方針を振り返りたくなるのは幸せな戸惑いだ。
「あの頃はいまよりもずっと身長差があって、豪くん、ボクよりずっと小さかったじゃないですか」
「ああ、そうだね」
 唐突に引き戻された会話に相槌を打ちながら、土屋はJの言うあの頃を脳裏に思い起こす。決して体格がいいとは言えなかった件の少年は、細身ながらも当時から既に長身だったJの肩口から胸元ぐらいの背丈だったと記憶している。もっとも、その小柄な体格に見合わぬ溢れんばかりのバイタリティーで、存在感は人一倍だった。それこそ、Jをはじめ大人である土屋でさえも飲み込み、ぐいぐいと引っ張っていってくれるほどに。
「背が同じぐらいか大きい相手に胸倉掴まれて殴られたことはありましたけど、自分より小さい相手にされたのははじめてで、ものすごく驚きました」
「そんなことがあったのかい?」
 かの少年のことだから、きっと大げさなまでの反応を示したのだろうとは推測できたが、現実は土屋の想像を遥かに超えたところにあったらしい。呆れ半分、驚き半分で語尾を跳ね上げれば、「そんなことがあったんです」と、Jはしれっと返してきた。


 にこにこと笑いながら、続けられる言葉はしかしありありとその情景を土屋の網膜に描きあげる。
「聞いたときは一瞬、わけが判らないって顔をされて、繰り返したらば顔を真っ赤にしてボクの胸倉を掴んで引き寄せて、バカなことを言うなって軽く頭突きをされて怒鳴られて」

――ふざけてんのか!?
――真面目だよ。だってほら、みんなとは全然違うし。
――だからなんだよっ!? 誰かに言われたのか? 誰だよそいつ!
――誰かって、いままでずっと、みんなそう言ってたよ。
――んなこと知るか! いいか、もう絶対そういうバカみてーなこと言うなよ! で、誰かに言われたらおれに言え!
――言って、どうするの?
――おれが殴りにいってやるっ!!
――だって、豪くん。本当のことだよ? 誰も、ボクはボクみたいな色の取り合わせの人を見たことがないし。
――関係ねえっ、そんなこと! だって、おれ、お前みたいなやつはじめて見たけど、こんなキレイな色のやつがいるって、お前に会うまで知らなかったぜ?
――きれい?
――キレイじゃないならなんなんだよ? 髪も目もきらきらしてるし。お前、その、ほら。……カッコいいし。
――気を遣ってくれなくていいんだよ?
――気ぃ遣うってか、本当のことだろ? おれ、うまく言えないけどさ。自信ねえなら、烈兄貴にも聞いてみろよ。リョウとか、博士とかでもいいけど。ぜってえみんなそう言うぞ?

「だから、そんな悲しいこと言うな、って。ボクがそんなふうに思ってたら、ボクのことをキレイだって思っている自分はどうすればいいんだよ、って言われちゃって」
 そういう豪がいまにも泣き出しそうな表情だったので、当時のJは表面にこそろくに現れていなかったがおおいに焦って困ったのだ。悲しませたかったわけではなかったし、ましてや自分を貶めるはずの質問で相手を傷つけるなど、まるで考えも及ばない結末だったから。
「どうしても自信がないなら、何度でも自分が言ってやる。誰が何と言おうと、自分は好きなんだ。それだけじゃダメかって。豪くんにそんなふうに言われちゃったら、ボクにはもう選択肢なんか残されていなかったんです」
「君は、昔から豪くんにはとりわけ弱かったからね」
 肩を竦めての結末にやんわりと土屋が笑いかければ、Jもまた照れたようなくすぐったそうな笑みを返してくれた。
「じゃあ、豪くんにそう言われて、君は考えを変えることができたんだね」
「変えざるを得なかった、というのが本音ですけど」
 誰に嫌われても疎まれても良かったはずなのに、気づけば失うのを恐れる自分がいた。豪に、烈に、大切な仲間たちに、そして、土屋に。彼らから疎まれるのが怖くて、嫌われたくなくて。あのときの意地悪い質問は、そんな恐怖が屈折しての問いかけだったのだろうなと、いまのJは冷静に思い返している。


 カップを口に運ぶだけのゆとりを取り戻したらしい土屋と向き合いながら、Jもまたぬるくなってしまったコーヒーを口に運ぶ。好みのブレンドを、と言えるほど詳しくはないが、いろいろな組み合わせを試している最中のこれは、なかなか良い感じに仕上がった。冷めても味の劣りがさほどないことに満足しながら、Jは話をはじめに戻す。
「気持ち悪いと、そう思われても仕方ありません。稀有な取り合わせですし、肌の色が黒いのは差別の対象になりやすいですから。その辺は、気にならないと言えば嘘になりますが、かなり慣れました」
 コンプレックスを自ら認めて、受け入れて。さらりと言ってのけられるのは、強くなったからだと胸を張りたい。強くなれた自分は成長できたのだと、その確信がきっとまた歩いていくための力になるから。
「ボクの外見も内面も、全部ひっくるめて好きだと言ってくれる人を少なくとも一人知っているから、それでいいんです」
 言い切る声音は確固たる思いに裏打ちされていて、いい友を持ってくれたことを嬉しく思う。先にちらりと不安に思った教育方針は、やはり間違ってはいなかったのだろう。同じ位置に立っていればこそ払拭できるものというのはあって、下手に大人が理詰めで説得を試みるよりも、子供同士の感覚レベルで気持ちに働きかけるべき部分を、彼らはきちんと通過してきている。きっとそれは、お互いにとって大きくプラスになっているはずだ。
「一人じゃなくて、私も入れて、最低二人にしておいてくれるともっと嬉しいかな」
 ことりとカップを机に置きながら柔らかな声音で土屋が注文を付加すると、Jはいったん目を見開いた後、ふんわりと表情をそよがせて「ありがとうございます」と気持ちのいい笑みを浮かべてくれた。
fin.
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 出かけた先でいろいろと思うところがあって、帰宅したらば語り合っていた二人。
 いかんともしがたい生まれながらの財産により、いかんともしがたい苦労を背負い込んだ彼の時間。
 コンプレックスの塊になって、いろいろ抱え込んで後ろ向きになってしまいそうだけれども、それらを跳ね除けて前向きに頑張ってこられた原動力。

 ウィンター・グリーン --- ブラックガムとかの、スーッとする感触の正体である化学物質の名称。

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