■ 野分の風音
 窓を叩く風の音は、いつまでたっても新鮮だと感じてしまう。それは、鷹羽リョウならではの感覚であり、そのわけを知る友人やその他の人物以外にうっかり口外しようものなら、大概はきょとんと目を丸くされる。
 嵐の夜は、もっと風と雨とをじかに体に感じられるものだった。
 晴れの日も雨の日も、どんな天気の日にも。
 世界の変化はいつだって、リョウのごく側近く、手を伸ばす必要もなく触れられるところにあるものであった。



 先ほどまでコースルームに集っていた子供たちは、降るような星空を、きっと知らないんだろうな、と思う。
 容赦なく、地に這いつくばって生きる脆弱な存在である自分を吹き飛ばすような、凶暴な風も知らない。肌を刺すようにして打ち付ける雨粒の痛みも知らないだろうし、雪の日の世界の静寂も知らないのだろう。
 丈夫な壁に遮られ、常に快適な温度を保ち、夏の暑さも冬の寒さも、すべては扉の向こうの話でしかない生活は、ある意味恵まれているのかもしれないが、悲しいことではないのかと、リョウは思うのだ。
「なにを考えてるの?」
 かけられた声はやわらかかった。鼻腔を微かにくすぐる仄かな香りには気づいていたが、その存在がまさかこれほどまで近くに迫っていると思っていなかったリョウは、わずかに片眉を跳ね上げることで驚きを示し、ゆったりと音源を振り返った。
「はい。紅茶、ストレートでよかった?」
「ああ」
 礼を言いながら手を差し出せば、ふわりと表情を緩めた相手は小さく「どういたしまして」との言葉を添えて、汗をかいたグラスを手渡してくれた。こだわりなのか、市販のものとも藤吉の家に邪魔したときに味わうものとも違う独特の味が喉を滑り落ちる。それは、どこかやわらかくて優しい、それでいて凛とした主張を崩さない、彼のような味。
 付き合いはこれで、何年になるだろうか。いつまでも変わらない一面と伸びやかに変わっていく一面を併せ持つ彼は、昔も今も、変わらない大切な親友の一人だ。
「すごい雨だね」
「台風だからな」
「みんな、無事に帰れたかな?」
 自分の紅茶を一口含むと、声の主、Jは窓辺に立ち、曇ってしまったガラスを軽く手で拭った。
 もっとも、外から雨に降り付けられているのでは、視界は大して変わらない。第一、ガラスが曇っているのは室内が空調によって外よりも涼しく保たれているからだ。無駄骨に終わった拳を少しだけ見やると、Jは真っ暗になった空を見上げる。呟いたのは昔と寸分違わないセリフ。
「どうしたの?」
 思わず頬が緩んでいたらしい。不審そうな声と流された視線に、リョウは弁解するように、淡い苦笑を浮かべる。
「いや。少し、思うところがあってな」
「なに? ボクに言えないような、やましいこと?」
「そうじゃない。なにも変わらないと、そう思ったんだ」
「突然どうしたの? さっきから、ちょっとおかしいよ」
 説明をかなり省いての発言は、ただJに不審を募らせるだけの結果に終わったらしい。柳眉を寄せて難しい顔になり、Jはリョウの正面のソファにすとんと腰を下ろす。話をじっくり聞くから、観念して口を割れ、という合図だ。


 探るというよりは内心を推し量ろうとする視線から顔を背け、リョウは窓を見やる。
「昔も、同じようなことがあったろう? ちょうど台風で、俺はこうしてお前と、そうだな。あの時は確か、コーラを飲んでいた」
「ああ、そういえばあったね」
 別に答をはぐらかすつもりはないとの意思を汲み取ると、Jの身にまとう空気はあっという間に和らぐ。
 表情を隠すことも演技も得意なこの旧知の友人は、案外その目の奥の表情と雰囲気とに内心が反映されやすい。偽ることなくその変化を見せてくれるようになったのは、あの嵐の日よりも少し前のことだったか。
「台風が来ているからって、練習をせっかく早く切り上げたのに、豪くんがなかなか片付け終わらなくて」
 兄にどやされて、それでもそんな些細な問題よりはよほど台風が近づいてくることに関心が偏っていた少年は、どうしても片づけが終わらなくて。
「こんな雨風の中帰るのは危ないからとか言って、泊まったんだったな」
 いつもの言動からは想像がつかないほど理屈っぽい言葉で兄を丸め込み、結局星馬兄弟は土屋研究所に泊り込むことに決定したのだ。
 そもそも、台風の中、山に戻るのは危ないからと避難を決定していた鷹羽兄弟も宿泊する予定だったし、普段から合宿をやっているぐらいなのだ。部屋には事欠かない。そして、メンバーのほとんどが泊まると聞いて、黙っていないお坊ちゃまが一人。
「そうそう。結局みんなで泊まることになって。大変だったよね」
「まあ、いつものことだったがな」
 懐かしい光景が、瞼の裏に、耳の奥に甦る。
 年少組が豪に引きずられた烈と一緒に風呂に入っている間、そしてリョウはJとコーラを飲んでいたのだ。それを風呂上りの豪に見咎められ、ろくに小遣いが残っていなかった豪にJがおごってやる形となり、あとから追いついた烈が、弟の欲望に忠実な行為に、それこそ烈火のごとく怒り狂っていた。
 一緒になってくすくすと思い出し笑いに興じていたJは、ふといたずらっぽい表情になり、リョウのことをわずかに上目遣いになりながら覗き込む。
「その続き、覚えてる?」
「忘れるわけがないだろう」
 台風の接近は予報よりもずっと早く、もしあのまま帰っていたらと、Jはリョウと二人でコーラを飲みながら、同じ部屋の同じ窓から外を見て、先ほどと同じセリフを口にしたのだ。
「だから、あのセリフで思い出したんだ。ちょうど、同じような感じだったからな」
 どんなに時間が経っても、色褪せずに残っているものがある。
 それは、テントの中で不安に思いながら聞く雨風の音であり、晴れた夜の溢れんばかりの星屑の光であり、ささやかにして大切な、友人たちとの思い出たちだ。
 隣町の学校に通うことになり、テント生活を引き払ったのは第二回グランプリから凱旋帰国した春のことだった。そして、世界は壁の向こうに隔離された。


 嵐の音には、いろいろな思い出がつきまとっている。遠く記憶の奥底深くまで思いを馳せていたリョウは、笑いをこらえるようにして眉根を寄せているJに気づき、何がおかしいのかと首をかしげる。
「ああ、ごめんね。で、その向こうは?」
「その向こう?」
「そうだよ。泊まることになって、コーラを飲んでいて、泊まったのが正解だったんじゃないかって話をして、豪くんにボクがコーラをおごって。それで、その向こう」
 妙に楽しそうに問われても、リョウはますます、かしげていた首の角度を深めるだけだ。
 夜は、それ以上特に変わったことはなかった。大勢が揃っていれば騒がしくなって、土屋に早く寝るように諌められて、それでベッドに入ったはいいものの、少し遠い嵐の音に違和感を覚えて、なかなか寝付けなかったぐらいだ。
「何かあったか?」
「覚えてないの?」
 目を丸くして問われても、思い出せないものは思い出せない。正直にそう申告すれば、わずかに考えるような素振りを見せ、Jは茶目っ気たっぷりに唇を吊り上げてみせた。
「じゃあ、いいや。どうせ後で思い出してもらえるだろうし、思い出せなかったらみんなで説明してあげるよ」
「おい、そんなもったいぶらずに――」
 含みをあからさまに持たせた物言いに、リョウはJに問いを重ねようとした。だが、それはちょうどのタイミングで現れた土屋によって阻まれてしまう。
「Jくん、お迎えだよ」
「ありがとうございます」
「迎え?」
 楽しそうに笑う土屋は、リョウに、子供たちの相手を手伝ってくれてありがとうと、一時間ほど前と同じセリフを繰り返し、丁重に頭を下げたJを、早く行くといいと急かしている。
「なにか用があったのか?」
「まあね。でも、ボクが君を呼んだんだから、もちろん君に関連する用事だよ」
 そもそも、今日は一週間ほど前からJに呼び出されていたのだ。互いの性格から、なんとなく示し合わせて、という形で会うことは少ない。呼び出されたのならそれなりに理由があるのかと思っていたが、特になにもなく、ただ研究所に集う子供たちの相手を手伝ってくれとそれだけだったところにきての「迎え」のひと言に、リョウは正直なところ、困惑していた。
「俺に? どういうことだ?」
「まあまあ、説明は後でするよ」
 自分の仕事は君をきちんと捕まえておくことだったんだから、と意味ありげに微笑まれて、リョウは言葉を失った。こういう風に笑うときのJはなにかを企んでいるときで、そしてそれを頑として口にしないときだ。そのぐらい、無駄な押し問答なしでももう読み取れる。
「さあ、行こうか。じゃあ博士、行ってきます」
「うん。帰りがもし遅くなるようなら、連絡をするんだよ」
「はい」
「リョウくんも、本当にありがとう。あと、おめでとう。楽しんで来るんだよ」
「え? あ、はい……」
 昔とまるで変わらない優しいまなざしに感じた懐かしさに遮られてしまい、リョウは耳に届いたはずの不思議な言葉の意味を、いまいち図り損ねてしまった。困惑気味ながらも素直に頷き、やはり丁重に頭を下げて辞去の意を告げたリョウに、Jと土屋は顔を見合わせてくすくすと笑っている。
 Jが強引にその腕を取り、やや強引に進んだ廊下の向こう、扉を開ければ、そこには見慣れたリムジンと見慣れた友人つきの執事の姿。
 わけがわからないままに豪奢な車内に連れ込まれ、連れて行かれる先は予想に違わないが、その先が予想できない。
 とにかくクエスチョンマークを飛ばさざるえないリョウのことを、ミラー越しに目を見合わせ、彦佐とJは小さく笑いあっていた。



 いまの彼が昔よりも嵐の夜を遠く感じるのなら、もっともっと遠く感じればいい。嵐の音など届かないほど、溢れんばかりの祝福を用意してある。
 天気が重なったのは偶然だが、この企画の形式はいつもどおり。あの日と一緒で、みんなでこっそり準備をしておいたのだ。
 世界から切り離された錯覚を起こす夜には、せっかくだから、おとぎの国と見紛うほどの楽しみを。
 だって、今日は君の誕生日。
fin.
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 忘れないよ、いつまでも。
 少しずつ離れて遠くなって、少しずつ薄れていったとしても、決して忘れたりはしない。
 そばに居続けることは叶わなくなっても、ずっと変わらない彼らの絆の在り方。

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