■ 天気雨
 リビングのソファーの横。少し毛足の長いラグの上は、Jのお気に入りの場所だ。
 気持ちよく晴れ渡っていた空から水滴がぱらぱらとこぼれてきたのをきっかけに、時間的には少し早かったが、洗濯物を取り込んでしまった。男所帯の二人暮し。そうそう分量があるわけではないから、かごに入れて戻ってくると、Jはさっそくそれらをたたんで分類しはじめる。
 片っ端から手際よくたたんでは、サイドにある机に二つの山を築いていく。サイズの違いは、山の大きさにも現れる。小さな山はJの衣類で、大きな山は土屋の衣類だ。
 普段の生活において、Jが土屋との大きさの差異を気にすることはあまりない。物理的にも精神的にも、土屋はいつだって、Jと相対するときには大人だとか子供だという立場を降りて、一人の人間として向き合おうとする。必要があれば、彼はひとりの大人として、Jに手を差し伸べる。それでも、特に理由がないのなら、土屋はJを、己と対等な位置にあるものとして扱う。かつては戸惑い気味に眺めることしかできなかったそれは、とても誇らしく、程よい緊張感を保つ二人の絶妙な間柄だと、いまのJは思っている。
 テンポよく仕分けは終わり、自分のものより一回りも二回りも大きな土屋のワイシャツや白衣は、分類先とはまた別の山行き。一息ついたところで、Jは立ち上がる。
 アイロンをかけるのだ。


 一つ屋根の下で暮らすことになってすぐ。まだずっと他人行儀でしかなかったJと土屋は、生活のためにまず小さな約束や取り決めを交わした。それは本当に他愛のないことで、他にも必要があれば徐々に増やすという話だった。だが、いまのところ、特に追加も変更もない。
 何もせずに養われることに馴染みなどなかったJは、何か仕事をしたいと申し出た。どんなことを言いつけられても、よほどのことでない限り、そつなくこなすだけの自負はあった。虚を突かれたように目を見開いた土屋は、さっそく、簡単なデータの打ち込み作業をあてがってくれた。それまでずっと個別扱いだった家事全般が、どうやら一緒くたに取り扱われるらしいことを知って、やはり分担を申し出たら、今度は妙な反応を返された。土屋が、火や刃物は危ないからと、慌てて遠ざけようとしたのだ。
 利用価値を存在理由として求めるJに、それは恐怖にも似た感情を呼び起こす。では何か別の仕事を、と食い下がれば、洗濯を頼まれた。正確には、洗濯物の取り込みを頼まれただけだったのだが、あまりに少ない仕事は落ちつかないので、全面的に引き受けることにしたのだ。頻度高く扱われることのなかったらしい洗濯機を手懐けるのには若干の苦労を伴ったが、それもいまとなってはいい思い出だ。



 既に手に馴染んだ、古ぼけたアイロンとアイロン台を引っ張り出してきて、まずは簡単なハンカチ類でウォーミングアップ。アイロンはともかく、アイロン台はそろそろ買い替えの時期だろうなあ、とぼんやり思いながら、次はワイシャツに手を伸ばす。
 はじめにアイロンの使い方を教えてくれたのは土屋だが、そのあと、烈と豪の母親にこっそりシャツのアイロンの掛け方を聞いたのは、まだ内緒のままだ。どんなに酷い出来でJが落ち込んだりしていても、変わらない笑顔で「ありがとう」と「嬉しいよ」を繰り返していた土屋も、それを機にめきめき腕を上げたJには、目を丸くしていた。驚きには喜びが伴い、それを成長のしるしだと嬉しそうに毎朝シャツに腕を通している土屋を見ると、Jも心が軽くなる。
 もっと喜んで欲しくて、もっと喜ばせたくて。そんな思いを伴った行動は、どんなものでも苦にならないのだと、そうはじめに教えてくれたのは、烈や豪といったかけがえのない友人たちの笑顔で、土屋の笑顔だ。
 一通りシャツ類を片付けると、Jはしばしの思案の後、一旦はたたんで山に突っ込んだ綿のズボンを引っ張り出す。折り目がぼんやりしているのは、やはりあまり格好がいいものではない。端を揃えて、きちんとアイロンを掛けて、パシッとしたラインを演出する。
 満足がいったところでズボンをたたんで山に戻すと、Jは最後に、白衣を手にとった。
 白衣は、いつも最後にまわすことにしている。毎日洗濯するようなものではない分、たまの洗濯の時にはじっくりかけたいし、大きいからだ。
 まずは自分の白衣にアイロンをあて、同じ型でもずっと大きい土屋の白衣にアイロンをかける。アイロン台ではとてもではないが大きさが足りないので、引っ張って引っ張って、もてあそばれながら作業をこなす。やっているうちに、どこの部分をかけ終わり、どこがかけ終わっていないのか、たまに混乱する。そんなときは仕方ないから、一旦立ち上がり、両手で吊るして前後を見る。
 毎日着るものだから。Jにとって、土屋の姿の象徴だから。より深い思いを込めて、丁寧に。
 その大きさに、包み込んでくれる懐の深さを重ねて。そこにあてるアイロンに、返しきれない感謝と情愛を重ねて。
 やはりかけそこなっていた部分があったので、もう一度座りなおし、その部分をアイロン台に広げる。
「おや、Jくん。今日は早いね」
 部屋の入り口からかけられた声に、Jは座したまま伸び上がり、声の主を見つける。今朝、夕方まで戻れないかもしれない、といって出かけた割には、早い帰宅だ。まずはと思って「お帰りなさい」と笑みを送れば、「ただいま」と返される。その当たり前のやりとりが、いつまでもくすぐったい。
「雨が降ってきたので、取り込みついでに。でも、もう終わります」
「そうか。じゃあ、たたんであるタオルは、洗面台に持っていっておいていいかな」
「アイロンを片付けるときに、一緒にやりますよ」
「私もどうせ、これから手を洗いに行くからね。ついでだよ」
 にこにこと笑いながらさっさと机から一山抱え込み、土屋は「いつもありがとう」という言葉を残して入り口へと戻り行く。
 こういうときは、反論は無駄骨に終わる。それを知っているから、Jは素直に厚意を受け取り、「ありがとうございます」の一言を忘れない。そして、アイロン台に向き直る。


 自分もいつか、この大きな白衣が身の丈に合うほどに、大きくなれるだろうか。
 それは、土屋を、彼を思わせるものを目の前にしたとき、いつしか抱くようになっていた憧憬だ。
 彼のように懐が深く、あたたかい人間になれたらいいと思う。パリッとした白衣が似合うようで、でも実は、笑顔を浮かべたときに見えるような皺つきの白衣もよく似合う、そういう大人になれたらば、と願う。
 手を止めていた思考に唇を歪め、Jは改めて、適度な重さを手首に伝えるアイロンを、白衣の皺にあてる。スイッチを切り、出来を確認し。満足したところで手早く片付けに移る。
 パタパタと廊下に響く足音に、Jはアイロンセットをしまったその足で、キッチンへと向かう。時間的にもシチュエーション的にも、お茶にしようと提案されるだろうことを、正しく予測できるからだ。
 そうでなくても、帰ってきたばかりで疲れているだろう土屋を労うために、Jは茶器に手をかける。その視界の隅では、大小の白が、仲良くパリッと並んでいる。
 何とはなしにそれを見ながら、先ほどまでの思考の回転に、Jはもうひと言、足りていなかったいつものセリフを付け加える。


 いつか自分も、彼のようにやさしい白が似合うようになればいいのに。そうなれれば、嬉しいのに、と。
fin.
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 遠い日を思い返し、いまを思い、未来を思い描く。
 少しずつ歩んできた足跡を振り返り、いまの立ち位置を見つめ、未来に立ちたい場所を眺める。
 そのすべてのきっかけには彼がいて、描く理想にも彼がいることの幸福。

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