■ 星月夜に願うこと
 本当は、甘いものよりも苦いもののほうが好きだ。
 紅茶もコーヒーもストレート派だし、緑茶の類も好きだったりする。
 でも、時々。無性に甘いココアを飲みたくなる。


 きっかけなんて、あまりにも見え透いている。あの人がボクに差し伸べてくれた、やさしさとぬくもりの象徴だからだ。
 困ったように微笑んで、差し出されるカップの中身はいつもミルクココア。
 寒い冬には、湯気の立ち上るあたたかな甘さを。暑い夏には、氷の音が涼やかなやさしさを。
 一人で眠れずにいる夜も、寂しさにうずくまる夕暮れも、いつもいつも、同じだった。
「甘いものは、エネルギー源だしね」
 それに、ほんのり幸せな気持ちになれないかな?と言って、どこまでもやさしく微笑んでいた。
 いつもブラックコーヒーを飲んでいる博士も、一緒にココアを飲むのが常だった。
 子供っぽいかな?みんなには内緒だよ、とちょっと照れたようにはにかむのが、妙に似合っていて、つい頬が緩んだのを覚えている。
 要するにボクの心なんか単純なもので、差し出されるそれが嬉しくて、口に含めばいつもよりもちょっとおしゃべりになる。警戒心を剥き出しにして、ただ怯えることしかできなかった小さな子供は、与えられる鞭ではなく飴によって、あっという間に心を解きほぐされた。
 魔法みたいだと、そう思った。
 まだ心を許していいのかわからない、と理性が告げるのに、やさしさの詰め込まれたココアを飲むと、ささくれ立っていた心が穏やかになったのが不思議だった。
 ずっと二人の距離が近づいて、ボクが博士を本当のお父さんみたいに慕って、愛して、本物の家族みたいに振舞えるようになってから打ち明けたら、博士は知っていたよ、とやっぱり微笑んだ。
「君の一番近くで、一番長い時間、心配し続けていたのは誰だと思っているんだい?」
 そう言われてしまっては、何も返せなかった。おどけた口調を装ってはいるけれど、それが真実であることは、誰よりもボクが一番よくわかっている。一番はじめから、ボクに対して限りのない愛情をいっぱいに注いでくれたのは博士。そのことには気づいていたけれど、困惑して戸惑って、何もできなかったのはボク。
 言葉では言い尽くせない。行動でも示しつくせない。それこそ限りない感謝の気持ちをどうすれば伝えられるのか、いまだってよくわからない。だから、せめてもの思いを込めて、ボクは少ないボキャブラリーの中から単語を漁る。
 愛してくれて、家族だと言ってくれてありがとうございます。ボクもあなたが大好きです。あなたのことを、養父として慕っています。尊敬して、誇りに思っています。実の父のように、愛しています。
 でも、いざ口にしようとすると照れてしまってうまく言えないことも多いし、言えてもさらりとかわされてしまう。だから、行動のすべてにも思いを込める。少しでも伝わればいい。博士が喜んでくれればいい。幸せだと思ってくれればいい。そして、ボクを少しでも誇りに思ってくれれば、もっとずっと嬉しい。


 初めて出会ってから、それなりの時間が経った。
 それでも、あの日から追加された新しい習慣は変わらずにあって、いまも甘くてくすぐったい。それを心地よいと感じる自分は、決して嫌いではなかった。
「どうしたんだい?」
 声をかけられて目を上げれば、そこには博士と二つのマグカップ。
「一休みしようか。ココアを淹れたんだ」
 言われなくたって、鼻腔をくすぐる独特の甘い香りに、そんなことはとっくに気づいている。そもそも、彼と冬の夜と湯気の立つマグカップ。この組み合わせだけで、すべては正しく察せられる。
 やさしくかけられた言葉に、ふわりと表情がそよいで、自然とほころぶ。
「何かいいことでもあったのかい?」
「博士がココアを淹れてくださったから、嬉しいんです」
 自分にカップを手渡して、近くにあった椅子に腰をおろしながら問うてきた彼に、言葉はするりと口をついた。いつになくふわふわした、幸せそうな声音だと、自分でも思った。
「それはまた、ずいぶんささやかな幸せだね」
「でも、大切な幸せです」
「なんだかくすぐったいな」
 笑いあって、こくりと一口。
 やさしい甘さが全身に染みとおって、あたたかな気持ちが行きわたる。
「今年は、なにが欲しい?」
「え?」
「誕生日だよ。もうすぐだろう?」
 言われて、カレンダーを見やって。すっかり失念していたその日の存在に、ああ、と頷く。
「もしかして、忘れていたのかい?」
「あまり、意識をしていなかったので」
 あきれたようにため息をつく博士は、そのまま「君らしいけどね」と、くつくつ笑い声をこぼした。
「で、欲しいものはあるかい?」
「日ごろから十分、いただいています」
「それじゃあ、また今年も当日のお楽しみだね」
 改めて欲しいものなんて、何もない。十分すぎるほどのすべてを、あなたはボクに与えてくれている。
 言葉に込めた感謝の思いは、きちんと彼に伝わっただろうか。
「じゃあ、ボクは博士にクリスマスプレゼントを選びます」
 誕生日がもうすぐということは、クリスマスが近いということだ。何か欲しいものは、と同じ問いを向ければ、気持ちだけで十分だよ、と毎年お決まりのセリフを返される。


 あたたかくて甘いココアをもう一口。
 くすぐったくて、幸せな夜が更けていく。
 実はひとつだけ、ぜひともねだりたいことがあるのは秘密だ。
 一度、どうしても言葉にして確かめたいことがある。あなたの口から聞いて、それを心に刻みたいのだ。
 きっと彼は、この願いを聞いたら目を丸くして、なにをいまさら、と言ってくれる。
 当然のことだから、願いにすらならないと言ってくれる。
 傲慢かもしれない。うぬぼれかもしれない。
 でも、これは予感ではなくて確信。
 そしてボクは知っている。
 この願いは、決して越えることのできない、二人の最後の境界線。


 ボクのお父さんになってください。お父さんと呼ばせてください。
 ボクと、本物の家族になってください。
fin.
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 でもそれは叶わないから、お父さんとは決して呼びません。
 呼んだ先にいるあなたを見て、面影も思い出せない彼を重ねてしまうのは無意識の産物。
 だけどどうか、いつの日か、お義父さんと呼ぶことはきっと許してください。

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