■ 紡ぎ歌
 カレンダーを睨んでは、溜め息をひとつ、ふたつ、みっつ。何度も何度も繰り返されるものだから、ついに土屋は苦笑交じりに問いかけた。
「どうしたっていうんだい、そんなに溜め息ばかりついて」
 君の溜め息につまずいて転ぶどころか、足の踏み場がなくなりそうだよ、と。からかいまじりに混ぜ返せば、生真面目な蒼い双眸がぱちくりと瞬いた。
「そんなに溜め息をついていましたか?」
 次いで唇を割るのがそんなセリフだから、今度は土屋が目を丸くする。
「無意識だったのかい?」
「ついていたんですね」
 それは重症だと、率直な感想にはもうひとつ溜め息が返される。意味合いは多少なりとも違うだろうが、結局無意識に溜め息をついて歩くことには変わりないから、本当に重症だ。


 土屋の子育ての基本方針は放任主義にある。放置する、という意味ではなく、自立心の高い子供を尊重する、という意味で。
 育ってきた特殊な環境がものをいっているのだろう。Jは元々、他者に依存しようとしない。必要な局面でさえ誰かに頼ることを厭う子供に、過干渉はもってのほかだ。
 それでも、何度となく説得と嘆願を繰り返し、言葉と行動でもって訴え続けたかいはあり、とりあえず、自分ひとりの問題であると結論付けない限り、Jはひと言ふた言、土屋に何かしらの言葉を伝えてくれるようになった。逆に言えば、そういった動きがない以上、どれほど思い悩んだ様子でも、基本的に黙って見守るのが二人のルールとなったのだ。
 相談されないのだから、きっと土屋が口を挟むことをJは厭うだろう。でも、もしかしたらどう切り出せばいいのかわからなくて、相談しようと思いつつ何も言えないだけなのかもしれない。そういう事例も、少なくないのだ。
 さて、どうしたものか。
 溜め息の多さに思わず声をかけはしたものの、その先までは考えていなかった。困ったなあと思いつつ、土屋は実は、Jからの反応を待ち望んでいたりする。
「大したことじゃないんです」
 そんな土屋の思いを知ってのことだろう。Jからの反応は、彼としてごくごく一般的なものだった。


 程度の幅が広すぎて、まるであてにならないひと言。むやみやたらと相手を疑ってかかるような性格ではないのだが、Jの「大したことはない」とか「大丈夫」に関して、土屋はあまり信用しないことにしている。
 何食わぬ表情でのその発言にうっかり騙され、自分の不甲斐なさを恨んだ経験値は高い。いまでもそこに潜む本音が、本当に「大丈夫」なのか、実は「大丈夫じゃない」のか、見抜けないのだからなおのこと。
「今回は本当ですよ」
 つい疑り深い視線でも向けていたか、いぶかしげな表情でも浮かべていたか。苦笑して、Jは軽やかに言葉を繋げた。
「本当に、大したことじゃないんです。ただ――」
「ただ?」
 息をつき、カレンダーを見やり。言葉尻を追いかけて先を促した土屋に応え、Jは溜め息に音を載せる。
「授業で、ちょっと大がかりな発表があるんです。その日程が近いから、憂鬱になっているだけです」
「なるほど」
 がっくりと落とされた肩に、土屋は低く笑声を立てた。
 頭も良く要領も良い自慢の息子は、口数が多いわけではなく、どちらかといえば寡黙な部類に入るだろう。実際、自分の思っていることなどを言葉に変換するのは不得意だと、自他共に認めている。しかし、それが心の機微とは別枠の、とりわけ事務的な説明ともなれば一変する。
 必要な言葉を必要なだけ、簡潔かつわかりやすい説明に、世界グランプリの折には助けられることも多かった。技術面での説明はもちろん、ルールをあまり深く考えようとしないエースへの、必要最低限の叩き込みにおいても。
 その長所は、誰もが認めるところなのだろう。これまでも、学校でのグループ発表などにおいて、中心的な発表役を務めることが多かったと聞く。今回もまた、同様のものなのだろう。


 事に対する得手不得手と、それに対する本人の感覚としての得手不得手は、ひとえに一致するものではない。どれほど説明がうまくても、どんな局面においても冷静に振舞えても、内面ではそういうわけでもないらしい。人前に出るのは緊張するし苦手だし、実のところパニックに陥って、頭の中が真っ白になっているのだと、いつの日にかぼやかれた。
 本人がそう言うのだから、きっとそうなのだろう。外側から見てわかりにくいというのは、時にとても便利であるが、時にとても不便でもある。
 元の作業に戻りながらも、表情は相変わらず冴えないし、心ここにあらずといった様子である。それでも仕事にミスはないのだから、器用なものだと、土屋は妙なところに感心する。どうやって頭の中で棲み分けをさせているのか、ぜひとも一度のぞいてみたい。
「まあ、頑張りたまえ」
 理由としては十二分に納得のいくものだったし、これ以上追い詰めるわけにもいかないので、土屋は素直に手を引いた。あえて聞き出したのだし、あまり喜ばれないだろうが、とりあえず励ましを送ることも忘れない。
 手を止めて、目を上げて。ほのかな苦笑を浮かべながらも、禁じえない溜め息がまたひとつ。
「微力を尽くそうと思います」
 呟いて、作業に戻る寸前。泳いだ視線はカレンダーを捉え、恨めしげな表情と共にもうひとつ、溜め息が追加されたのだった。
fin.
BACK        NEXT

歌を紡ぐ。言の葉を紡ぐ。
歓喜も悲嘆も、たとえそれが絶望の叫びでも。
君の唇が紡ぐすべてを、私は聞きたいと願うのだよ。

timetable