■ 醒める日まで
 ソファに並んで座って、互いに無言でコーヒーとココアを啜る。寒くないけど、体温は感じられない。そんな距離の中、不意にJが目線を横に流す。
「気づいていらしたんですね」
「ん? 何にだい?」
「大会の間、ボクがずっと苛々していたことに、です」
 立ち上る湯気越しに合わさった視線は、情けないと雄弁に物語っていた。
 カップを包んだ両手の肘を膝の上に置いて、Jは再び視線を机へと投げ出す。
「ずるいです。博士も、リョウくんも。自分でも把握できなかったのに、ボクがぐるぐる考えていたこと、全部お見通しだったんですね」
 大げさな溜め息と共に、肩ががくりと落とされた。
 後戻りはもうできない。夢のような魔法の時間が終わり、祭りは片付いた。遺された選択肢は、懐かしんで振り返ることだけ。そっと瞳を眇めて、思い出を愛でることだけ。
 冗談交じりに笑ってみせられるだけのゆとりを感じ取り、土屋は目元を和ませる。
「そりゃあ、私は君の父親だからね」
 冗談交じりに、でもそれは紛れもないJの本音だから、土屋は本音をストレートに投げ返す。いまだ記憶に新しいセリフで。そっと織り交ぜた回想に気づいたのか、ぴくりと片眉を跳ね上げて、Jは横目に土屋を見つめながら小さく苦笑をもらした。
「敵わないなぁ」
「年の功だよ」
 すました切り返しに、今度は明白な笑声がこぼれた。


 無理をしているのではなく、感傷にさいなまされるでもなく。きっと、もう割り切れたのだろう。そう悟って、土屋はもう一歩、踏み込んでみることを決める。
「正直なところ、意外だったよ。君がこんなに悩むというのはね」
「ボク、そんなに醒めて見えますか?」
 素直な驚きを呈して、双眸が土屋に向けられた。唇の両端は吊り上げられているが、漂う寂寥感が拭いきれていない。思いもかけず子供の心に傷を与えるような言葉を発してしまったかと、土屋は慌てて継ぎ足す。
「違うよ。そうじゃなくて、何というか。君のスタンスは、チームの中で一番我々に近いと思っていたからね」
 開発者としても申し分のない知識と技術を有している子供は、レーサーとしての観点だけでなく研究者としての観点も活かした、独特のやり方でマシンを扱っているように見えた。マシンをかけがえのないパートナーであると公言しつつ、機械であることを自覚した立場。それゆえ、レーサーという立場を離れる決断を、誰よりもあっさりとこなしてしまう気がしていたのだ。
 酷く大人びた子供だから、きっと時間の有限性を知っていて、それに苦しむだろうとは思っていた。しかし、蓋を開けてみれば、Jは土屋の予想を遥かに裏切る深い苦悶をみせた。
 自力で乗り越えるのを待たなくてはならないとわかっていながら、手出しをしたくなる衝動を、いったい何度抑えつけたかわからない。苦しんで、もがいて、あがいて、神経をすり減らしながら終焉を受け入れようと努力していた。それが、土屋には少し意外だったのだ。


 なるほど、と、追加された説明にJは実にあっさりと頷いた。
「機械だと割り切っていましたよ。それは当たっています」
 それから、視線を手元に戻して悲しそうに口元を歪める。
「でも、博士。ボクにとって、ボクを裏切らずにいてくれるのは、その機械だけだったんです」
 無機物なのに。感情を持っていないのに。
 なのに、傍にいて欲しいときに寄り添っていてくれたのも、思いに応えてくれたのも、すべて、誰かの存在ではなくて、機械たちだった。一番近くにあったのは、人のぬくもりではなくて金属とプラスチックの感触。存在を保障してくれる道具。思いをかければ応えてくれる、縋ることのできる対象。
 感情を持っているかのように。生き物のように。
「割り切っていればこそ、応えてもらったときは想像を絶する喜びでしたし、まるで生き物のように反応するのが奇跡のようで、本当に嬉しかったんです」
 穏やかに呟いて、Jはちらりと土屋を見上げる。言葉を失い、辛そうに唇を噛み締めている様子に、表情の歪みを微苦笑へと移ろわせる。
「だから、離れるのが寂しかったんです。ボクを裏切らずにいてくれたのに、ボクが裏切るような気がして」
 口を開けては閉ざし、言葉を探している土屋の瞳が悲しみに沈む。上目遣いにそれを見やり、Jは上体をふらりと傾ける。


 頭を土屋の腕に預け、肩から力を抜く。びくりと跳ね、硬直し、恐る恐る力を抜いていく相手に、少しずつ体重を預ける。
「きっと、あのときのボクは、人間よりも機械の仲間だったんです」
 納まりのいい位置を探して少し動いてから、Jは完全に土屋に寄りかかった。そっと瞳を閉ざし、やわらかな吐息に言葉を絡める。
「裏切るんじゃなくて、先に進むんだってわかりました。もう大丈夫です」
 親離れの第一弾です。おどけた声でそう言って、甘えるように擦り寄ってくるJの肩に、土屋はそっと手を添える。
 年月を重ねるにつれて、大人になって、子供に戻っていく。正反対に見えるベクトルを器用に併せ持つ子供が、カップを両手に扉越しに声をかけてくる。それは、いまになって定着した習慣。箱庭に蓋をすることを決めてから、ようやく紐解いてくれるようになった心の切れ端。
 焦るように、不安を振り切るように、子供は必死に甘えてくる。
 残された時間が、あとわずかしかないのだというかのように。
 狭間の時間に踏み出して、やっと気づいたのだろう。自分が置き去りにして、振り切って、取りこぼしながら走ってきたものに。そう思うとやりきれなくて、それに気づいて焦るさまが可愛らしくて、土屋は仄かに笑う。
「まだまだ、私にとっては手のかかる子供だよ」
 大丈夫だよ、と。包み込むようにしてぽんぽんと叩いてやれば、Jは、腕の中で声を立ててくすぐったそうに笑った。
fin.
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 箱庭に蓋をすることに決めました。
 一歩踏み出して、境界を越えることにしました。
 でももう少しだけ、あなたの隣でだけ、まどろんでいさせてください。

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