■ 嬉しいことはみんなで
 天を仰いで慟哭して、烈は泣いた。かっこ悪いとか恥ずかしいとか、そういう余計な感情は湧きあがってこなかった。ただ、体の奥底から声を振り絞って、すべてを吐き出したくて、空に向かって泣いていた。
 空っぽにしてしまいたかった。いっそ、振り仰ぐこの空のように、広く広く。空っぽに。真っ青に。


 膝が崩れて地面に座り込んでいることに気づいたのは、豪がソニックを回収してきたからだった。目の前にずいとマシンを突きつけられ、つられて視線を向けた先には、嬉しそうに満面の笑顔を浮かべている弟がいる。
「なーんて顔してんだよ、兄貴! ほら、もっと喜べよ! おれたちの優勝だぜ!!」
 マシンを掴んだ右手は、手首を掴まれて力強く引き上げられた。よろりとふらつきながら立ち上がれば、鼓膜が破れんばかりの声の津波が押し寄せてくる。
「烈、豪!」
「リョウ! ちゃんと完走したか!?」
「当たり前だ。すぐにJと藤吉も来るぞ」
 全員完走だ、と。きつい眦を和ませてにやりと笑い、リョウは烈に向き直る。
「できることならトップでゴールしたかったんだがな。結局、お前には敵わなかったってことか」
 真剣な眼差しの中に満足げな表情を滲ませ、長身のチームメイトは綺麗に微笑んだ。
「どーして烈兄貴だけなんだよ! おれもだろ!?」
「トップは烈だったからな」
 二位以下は同じだ。そう切り返したリョウに、豪は悔しそうに地団駄を踏む。
「次はぜってートップになってやる! 絶対だからなっ!」
「そのときは観客席で応援してるさ」
「ボクもね」
 穏やかで落ち着いた声が静かに返せば、やわらかな声がそこに重なる。
「J! お、藤吉も来たのか」
「わてはついででげすか」
 嬉しそうに声の主を振り返り、それから視線を横に流して豪はつまらなそうに付け足した。げんなりとした様子で大袈裟に肩を落とし、藤吉はあっさりと受け流すことにしたようである。喜色で塗りつぶされるべき場面において、こんな些細なことに腹を立てるほど狭量ではないのだ。
「まあ、次はきっとわてがトップでげすよ。そのときにたっぷりとお返しをするでげす」
「おれだっての!」
 わいわいといつものショートコントのような小競り合いに発展していく二人は、それでもどこかにゆとりを持って互いにやり取りを楽しんでいるようだった。にこにこと微笑みながらその様を見守っていたJは、ふと視線を巡らせて、決勝における最大の功労者を探す。


 烈は、豪に右手を握られたまま、ぼんやりとゴール付近を眺めていた。
 今回の優勝は、トップでチェッカーフラッグを振られた烈のおかげだ。無論、それぞれにベストを尽くしたし、先方を走る仲間のために全力を尽くした。その意味では全員で勝ち取った優勝だが、それでも、トップを奪い取った感慨はひとしおだろう。
 優勝をもたらしてくれたこと、期待に応えてくれたこと、信じて振り向かずに走ってくれたこと。チームリーダーとしてずっと率いていてくれたことも、一緒になって作戦を考えたことも。
 たくさんのことに、どうしてもいま礼を言いたくて、Jはそっと声をかける。
「烈くん?」
「――った」
「え?」
 意識を向けてもらえないかもしれないが、それならそれで、邪魔をしてはならないだろう。そう気遣いながらの声は小さかったが、返される言葉があった。歓声にかき消されて聞き取れない言葉。思わず聞き返すように声を上げれば、烈はゆるりと首を巡らせる。
「僕らのレースが、終わっちゃったんだ」
 涙をいっぱいに湛えた双眸はまっすぐにJへと向かう。向かい、突き抜け、そしてどこか遠くを見つめながら、烈は呟いた。
「終わっちゃったんだ。もう、戻れない。戻れないんだよ」
 言って、そして烈は俯いて泣き出した。ようやく様子がおかしいことに気づいたらしい豪が振り返り、慌てて慰めたり声をかけたりしている。それにあわせて横合いから藤吉も同調を繰り返し、その健闘を称える。それでも、烈の涙は止まらない。


 思わず感慨に呑まれそうになったJは、しかし、そっと滑り込んできた声にぴくりと肩を揺らす。
「お前まで泣くなよ」
 視線を滑らせれば、意地悪く口の端を吊り上げているリョウがいる。
「頼むから、泣くな。笑っていてくれ。――笑って、終わりにしたいんだよ」
 言って上向けられた視線は、スタンドを巡り、実況台で最後のマシンがゴールするまで声を張り上げ続けるファイターを映し、ゴールからコースを逆行していく。
 懐かしむように、刻み込むように。細められた瞳が優しくて儚くて、Jは息を詰める。ぐるりと、同じように周囲を見回して、歓声を耳に刻んで、胸いっぱいに空気を吸い込む。一瞬でも長く、わずかでも鮮やかに覚えていられるように。褪せないように。壊れないように。
「楽しかった」
 うん、とひとりで頷いてから、Jは意識して声を張った。唐突な宣言に驚いたらしいチームメイトを順に見つめ、めいっぱいの笑みを浮かべる。
「とっても楽しかった。最高のレースだったよ」
 全身全霊を懸けて、Jは己の声を記憶に刻む。目に映るものと、耳に届くものと、肌で感じる風と、そして沸き起こる感動を。
「おまけに優勝したんだからな。言うことなしだ」
 目を見開いてJの横顔を見ていたリョウが、頷いて付け加える。笑顔と、やわらかい声で。
「わても、最高に楽しんだでげすよ! マシンも絶好調だったでげす」
「おれのマグナムの方が絶好調だっての! 楽しいに決まってんじゃん!」
 にっと笑って藤吉と豪が胸を張り、呆然と、烈はチームメイトたちを見やる。
「烈くんは? 楽しかった?」
 ぱちりと、蒼い瞳が瞬いて、やわらかな光を弾く。


 空っぽにしてしまいたかった。いっそ、空のように広く。広く。空っぽに。真っ青に。
 なのに、空の青は優しくて眩しくて、ちっとも空っぽなんかじゃなくて。
 振り仰ぎ、光を網膜に刻む。眩しい光と、それに照らされるコースと、ライバルたちと、仲間たちと。ゆっくりと目を閉じて、浮かび上がるのはきらきらした光景ばかり。
「楽しかったよ」
 目を開けて、噛み締めるように呟けば、仲間たちはわっと笑って、烈を引っ張って走り出した。慌てて視線を巡らせれば、じっと様子を伺い、勝者を称えようと待ち受けているライバルたちが見える。その向こうには歓声と拍手を送る観客が見えて、元気に実況を続けているファイターが見えて、土屋と二郎丸がベンチから出て駆け寄ってくる。
 引きずられるようにして走りながら天を仰いで、烈は泣き笑った。心の底から声を立てて、泣きながら笑った。
 楽しくて最高で幸せな時間が幕を下ろしたことを、祝して。
fin.
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 きらきらと光る時間に、そっと蓋をしよう。
 真っ青に、絵の具で塗りつぶした空で。
 光を閉じ込めて、風を閉じ込めて、そっと大切にしまっておこう。

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