■ 還るためにある往く道に
リビングの窓脇、つい先日新調したばかりのラグの上に座り込んでいるJを見つけて、土屋はふわりと口元を緩めた。
「肩が凝らないかい?」
「え、そうですか?」
長い手足を持て余すように、くるりと体を丸めた状態の手元には、半分ほど読み終わった文庫本が開かれている。ふと上げられた視線が土屋の微苦笑を捉えたのか、不思議そうに大きな瞳が少しだけ眇められた。
片膝を立てた右足を外側から抱え込むようにしている右腕は膝下をくぐって、やはり折り曲げ、寝かせた左足のすぐ脇に。寄りかかるようにして右膝に体重を預けていた名残か、押し付けられていた頬はわずかに赤くなっていた。
「うん。体が柔らかいから、そう気にならないのかな?」
もし自分がこの姿勢をとったら、と考えると、背筋がポキポキ鳴りそうな気がする。そう土屋が笑い混じりに返せば、Jは改めて自分の姿勢を見やり、あいまいな笑みを浮かべて右腕を膝の下から引き抜いた。
「何ででしょうね? 初めからこの姿勢になるつもりだったわけじゃないんですけど」
そのまま倒せば、足裏を合わせた状態のあぐらもどき。外観はどこまでも椅子座生活圏の人間だが、Jは床座生活圏で過ごした時間の方が長い。リラックスしきった状態で足を組みなおし、交差した足の上にしおりを挟んだ本を置く。
「お帰りなさい」
「ただいま」
にっこり笑って挨拶を交わすと、土屋はリビングのテーブルに手にしていたビニール袋を置いた。
「キリがいいなら、一休みしないかい?」
肉まんを買ってきたんだよ。商店街の、お肉屋さんの。君、あそこの肉まん好きだろう。ぽつぽつと言葉を続けながら、土屋はかばんをソファに預け、マフラーとコートとを体から取り去る。首をめぐらせて袋に印刷された店名を確認すると、Jは嬉しそうに目を細めて鼻を少しだけひくつかせる仕草をみせた。それがやけに子供じみて見えて、土屋はやはり嬉しそうに笑う。
本を片手に、もう片手でフリースの肩掛けを押さえながらゆるりと立ち上がるさまは、陽だまりの猫を思わせる。一人でいるときにはあまり身に纏わない、ほのぼのと和らいだ空気がJを包んでいる気がする。
「お茶を入れておきますから、コートとかばん、片付けていらしてください」
さっと肩掛けを畳んでソファに無造作に放ると、Jは土屋にかばんを預けながらキッチンへと向かう。少し機嫌が上昇しているのか、足取りがいつもより軽い。きびきびというよりはくるくると動き回る背中を視界の隅に、土屋は足早に自室へと向かい、片付けついでに上着とネクタイを外し、代わりにカーディガンを羽織った。
「ウーロン茶でよかったですか?」
「ああ、肉まんだしね」
良いですかって言っても、もう入れちゃったんですけどね。笑うJの手際は良く、まだ温かかった肉まんは皿に移されてテーブルに置かれている。
ソファに差し向かいで腰を下ろし、口を湿してから、おもむろにひとかじり。染み出してきた肉汁をこぼさないように気をつけながらも、思った以上に熱かったそれにやけどをしてしまいそうな気がして、はふはふと口をうごめかす二人は無口だ。
嫌味のない静寂。それを手に入れることがどれほどの幸福かを知っている。だからこそ失いたくないと願い、見極めるべき分岐点をあいまいにしてしまいがちな人の性を、悲しいかな、わからずにいられるほど二人は愚かではなかった。
「パンフレットには、目を通したのかい?」
文庫本とは別枠に、テーブルの片隅に無造作に積まれていたリーフレットやら薄い冊子やらを視線で示し、土屋は口火を切った。わずかに逡巡する様子を見せはしたものの、Jは素直に首を縦に振る。
土屋よりも一度に口に含む量が少なく、おまけに租借の回数の多いJは、必然的に土屋よりもものを食べる速度が遅くなる。日常の有様は覆されることなく、先に食べ終えた土屋が、ウーロン茶のおかわりを入れながらウェットティッシュのボックスを食器棚付近から移動させてくる。手指を軽く拭い、次にその手が取ったのは、投げ置かれたうち、一番上に乗っていたアルファベット表記のリーフレットだ。
「もう決めたのかな?」
「はい」
しっかり噛み砕いた生地と具とを飲み込み、Jは残り四分の一ほどとなった肉まんを皿に戻した。代わって湯飲みを手にする様はとても自然で、いままで築かれてきた二人のやさしい時間を象徴している。変わることも終わることも、予感しつつも想像できなかった時間。
そうか、と呟いてから、土屋は意味もなく字面の上で視線を踊らせ、唇を歪めた。
「寂しくなるね」
「ボクも、淋しいですよ」
止める気も、止められたとて聞く気もない、形式ばったやりとり。何気なく二人で過ごす時間も、手伝い、手伝われて分かち合う時間も、同じ空間にありながらそれぞれの作業に没頭する時間も、すべてはもうすぐ一時停止を余儀なくされる。それを、当事者たるJが望んだから。
やんわりと微笑み、Jは残っていた肉まんに再び向き合う。ゆるゆると齧りとられて、最後の一口は意外とすぐにやってくる。
「全部決めたらば、最終決定の前に一度、じっくり話をしよう」
少しは力になれると思うよ、と微笑んで、土屋は空になった皿を片付ける。さっと水を通して乾燥棚に入れてから、呼吸を整えて振り返る先には、いつの間にかずいぶんと大きくなった子供の背中がある。頼もしいと、嬉しいと。そう思うと同時に沸き起こる寂寥感を抑えられないのは、きっとこの子を引き取らなければ味わえなかった感慨なのだろうと土屋はしみじみ思う。文庫本を再び手にして、ぱらぱらと無造作にページをめくるその行為に込められているのは、一体どんな思いなのだろうか。
ことりと、湯飲みを置く音がやけに大きく響いた。いつの間にかJの背後で動きを止めていた土屋を射抜く、蒼い瞳は真っ直ぐで力強い。
「飛び出せるのは、帰る場所を知っているからです」
紡がれる言葉は穢れを知らない純粋さゆえの、ともすれば驕りともいえる強靭さと脆さを内包している。鼓膜に響いた音があまりに美しくて、土屋は瞳を眇める。
「いつ戻ってきても、きっとまたここで不自然な格好で本を読んで、博士に肩が凝らないかって聞かれて、ボクはよくわからなくて」
一緒にお茶を飲めて、お手伝いができて、食事のメニューを悩んで、買い物に行って、料理をして、テレビを観て、雑談をして。全部、それが当たり前になったから。だからこそ飛び出していこうと思える。あなたと築いたやさしい日常こそが、日常から飛び出す原動力になる。
はにかみながら一気に言い切ったJは、そこで息をついてふと不安そうな表情になり、小首をかしげた。
「そう、うぬぼれては駄目ですか?」
年齢の割りにずっと大人びた、同年代の子供たちからはあからさまに切り離された不思議な子供の、それは年齢相応の表情だと土屋は思った。
にぎやかな場はあまり得意でなく、静かに過ごすことをこそより好むが、一人でいることが好きで他者がその領域に入ることを嫌うのかといえばそういうわけでもなくて、ポーカーフェイスの下には寂しそうなはにかみ顔が隠されている。不器用で淋しがり屋の子供は、いつの間にか背が伸びただけではなくて、さりげなく甘えるのもずいぶんと上達したようだ。
ささやかな感動に胸を打たれ、土屋は軽く瞠目する。
「もっとずっと、うぬぼれてくれていいよ」
いつ戻ってきてくれても、日常は滞りなく続く。何を過敏に感傷的な気分になっていたのかと密かに自嘲しながら、土屋はゆっくりとソファに腰を落ち着けなおした。
「見せてもらってもいいかな?」
「どうぞ」
先ほど挟んだしおりを本から除きながら姿勢を整えるJは、土屋が手にしたパンフレットの束をちらりと流し見て、あっさりと応じた。
「ボクもそれなりに調べてはみたつもりですけど、でも、ぜひあとで相談に乗ってください」
「うん。そのためにも、じっくり読んでおかないとね」
博士は英語が得意だから大丈夫でしょう、と笑い混じりに混ぜ返し、Jは手元の本へと意識を集中させる。
同じ空間にいて違う作業をして、それでも繋がっていると感じられるその空気が、Jは好きだった。でも、それがあまりに心地よいからといって、溺れて絡め取られて、大切なものを見失わなっては意味がない。
やさしい場所は休息の場所。ならば、休息を求めるときまで、がむしゃらに羽ばたいている必要もあるだろう。
遠からずやってくる、己で決めた嵐へと飛び込む前のしばしの贅沢。声には出さず胸の内で呟くと、Jは小さく口元に笑みを刻み、再び読書へと没頭していった。
fin.
見送る彼と、見送られる彼と。
残された時間は、それまでと同じ速度でゆるりと進んでいく。
立ち止まりたいととどめたいと願う彼と、進みたいと駆け抜けたいと思う彼の、共に過ごす残された時間。
timetable