■ 連なる時を
むかしむかし、あるところに。
そう、やさしく穏やかな声で綴られる物語があった。
物語の中で、すべて正義と邪悪とはきちんと分かれており、絶対的な正しさは正義に、絶対的な過ちは邪悪にあった。その二つが混沌となり、どちらにも正邪が入り混じる世界など、ありえるはずがなかった。
正義に孕まれる悪があり、邪悪に含まれる正しさがあると。
そんなことに気づいてしまったのは、いつの日だったろうか。
それを知った瞬間、もはや自分は子供ではいられないのだろうと。そう、漠然と悟った。
憎むことなどできない。
忌み嫌うことは簡単だけれども、それは己の内にある卑しむべきパーツを正当化するだけの、わがままな行為だ。それに、あの人は自分に対して、きちんと正しくもあった。
思うに、あれほどまっすぐで純粋な大人というのも、珍しいのではないだろうか。
己の思いに忠実で、こうと信じたら一心不乱に突き進んで、周囲の意見になど耳を傾けようともしない。たとえそれを世界中から悪だと指差されることがあっても、あの人はそんなことを気にしたりしない。堂々と胸を張って、それでも自分の正義なのだと、前を見据えて立っている。
それはいっそ、目が眩むほどのカリスマ性であり、彼が彼であるための、一番の必須項目だった。
己を信じ、信念を貫く。
その一点に関して、きっとこれを言ったらば彼らは本当に嫌そうな顔をするだろうけれど、彼と彼らはよく似ている。
強く、眩しく、まっすぐ。
そんな生き様は本当に、驚くほどよく似ている。
そしてそんな生き様に惹かれるという点では、かつてもいまも、自分はまるで変わってなどいないと、Jはこの頃よく実感する。
あの人が自分に対して誤ったのは、一人の子供として認識して育てる一方で、その方向性が人形の作成にあったことだ。
バランスを考え抜かれた食事も、惜しまれることのなかった教育も、体力を養うという意味での訓練も、すべては今のJを支えている。それらすべてを、Jはありがたかったと思っている。
ただ、それは彼にとって、人形を形成するひとつのパーツに過ぎなかった。
もう少し。もう、ほんのわずかにでかまわない。
その人形の中には心があり、心は心を向けられてこそはじめて動くものなのだと、そのことをわかってくれていたら。
きっと自分は彼の輝きにこそ囚われ、そこから動くことはなかったのだろうと思うのだ。
彼の作った籠の中にいた自分は、完全な子供であり人形であった。
世界には正義と邪悪の二つがあり、それらは水と油のごとく相反するもので、互いの中に互いの性質を持ったりはしないと。そう信じて疑わなかった。
「J? どうかしたのか?」
つらつらと物思いに耽っていたJは、鼓膜を打った声と同時に意識を覚醒させ、そして視界いっぱいに映る青い瞳に、瞬きを繰り返した。
いまだ乏しい表情に、それでも精一杯の驚愕を乗せてわずかに身を引けば、相手もまた顔を離し、きちんと向き直ってからもう一度、同じセリフを繰り返す。
「どうかしたのか? さっきからずっと、ボーっとしてっけど」
「……なんでもないよ、豪くん」
「なんでもないって感じじゃないよ。大丈夫?」
いつの間にか干からびていた喉に絡まる声を、なんとか取り繕いながら絞り出す。目の前で小さく傾げられていた首はますます角度を深め、眉をきゅっと寄せて、不信感を伝えてくる。そこに重ねてかけられたのは、彼の兄の声。
「もしかして、夏バテとか? あ、クーラー病っていう線もあるかな」
ここはいつもよく冷えているもんね、と続けられた言葉に、コースルーム内をうろうろしていた職員のひとりが、慌てた様子で入り口へと駆けていく。しばらくもしないうちに、室内に絶え間なく響いていた駆動音が少しだけ緩くなり、空調がいじられたことがうかがえる。
器用に片眉を持ち上げ、烈は「気を使わせちゃったかな」とどこか気まずそうな表情でひとりごちる。
「なあなあ、調子わりーんなら、無理するなよ?」
小さく肩をすくめる姿がどことなく外観に不釣合いな気がして、Jは口元が微かに歪むのを知る。きっと、苦笑を浮かべたいのだろう。そうは思うが、表情筋がついてこない。妙に冷静な判断を下していたためか、くいと腕を引いて告げられた言葉に、Jは咄嗟の返答をすることができなかった。
「お前も少しは成長したんだなあ」
「兄貴、それどういうことだよ!?」
「まんまの意味だよ。お前が人のこと気遣えるようになる日が来るなんて」
わざとらしくおどけた口調に、豪はしかし、簡単に挑発されて、真っ赤な顔で食ってかかっている。一歩間違えば派手な兄弟げんかに発展しそうな予感に、Jは慌てて双方を見やり、なんとか言葉を挟まねばと、眉根を寄せて思考を巡らす。
「あ、あの!」
「あー?」
「なに、Jくん?」
ぐちゃぐちゃと絡み合う思いは言葉を得ない。それでも、思いが沸き起こるままに声を発せば、ぎりぎりと睨みあっていた兄弟は同時に顔をあげ、じっとそのまっすぐな視線をJに注ぐ。
「あの、大丈夫。ちょっと、ボーっとしていただけだから」
「そっか。なら良かった」
「なあなあ、じゃあさ。ちょっとここんとこ見てくんね?」
ゆっくりと息を吸い込んでからなんとかそう告げれば、二人は本当にまぶしい笑顔を向けてくれた。あまりにわかりやすく安堵している豪に少しだけ照れくさいようなくすぐったさを覚え。いたずらっぽい表情を交えて視線を流してくる烈に、少し沈み込んでいた自分を敏感に感じ取り、豪を利用して場を和ませてくれたのだと。わずかなタイムラグをはさみ、その真意を知る。
にこりと笑む表情と穏やかに紡ぐ言葉。烈はきっと、そこに深い思惑を込めて。まっすぐに向けられる眼差しと飾ることのない言葉。豪はきっと、その真実のみの姿こそに、底なしの力強さをもって。そして二人はJを惹きつける。
どうしようもないほどのまばゆさに、思いを添えることによって、Jが逃れることなどできるはずもない引力となって。
あの人は、彼のことを語るたび、少し寂しげな顔をする。
彼らは、彼のことを聞くたび、少し怒った顔をする。
その違いを、いまのJは正しくわかっている。大人であるか、子供であるかだ。
どちらにもなりきれないJはそして、どちらともつかないあいまいな笑みで誤魔化している。
いつか、いつの日にか。
彼に向かってかつて言いそびれたひと言を言える日が来ればいいと願いながら、いまはまだと、それを押し殺す。
彼らの手を選び、そして己の手をそこに重ねる寸前。
逡巡し、わずかに引いたこの手のことを、あなたが見ていてくれたならと思う。
わがままな言い分だとは知っている。それでも、裏切りたかったわけではないのだ。
ただ、新しい世界が知りたかった。
人形に対して心を向ける、彼らの世界を知ってみたかった。
心を向けられてはじめて、人形は命を得るから。
むかしむかしあるところに。
そう、やさしくはじまるお話は、どんなに波乱万丈な中身を孕んでいても、必ずやさしく終わる。
そして末永く、幸せに暮らしました。
正義と邪悪の入り混じった混沌の中で、きっと穏やかな平安を得ることができるから。
彼と再びまみえたとき、彼の眩しさにまっすぐ微笑むことができるように。Jはまた、今日という時間と一生懸命に向き合うのだ。
fin.
彼といた時間も、彼といる時間も、別々な用でいてすべては繋がっている。
だからこそどんなにちっぽけな瞬間もおろそかには出来ない。
やがて、彼と彼と自分と、三人で時間を振り返る日が来るかもしれないから、どの瞬間もすべて大切にして、必死に全力を尽くそうと決めたのだ。
timetable