■ オープン・セサミの呪文を教えて
もともと溢れんばかりの気遣いはあからさまだったが、土屋のJへの構いっぷりは、日ごとに目に見えて増していった。
そわそわと心配そうに所内のいたるところをうろつく中年男の姿は、あまり見目良いものではない。だが、心配でたまらないくせにそれをうまく伝えられず、触れようとしては困ったような顔で手を引っ込めてしまう土屋の、もどかしくも切実な空気に、所員たちは溜め息交じりの苦笑を浮かべる毎日だ。
もっとも、やはり直接に視線やら気配やらを感じる分、むずがゆさはJのほうが格段に上なのだろう。そわそわと落ちつかなげに、視界に土屋がよぎるたびに眉を寄せて困惑した空気を振りまくさまは、微笑ましくもあり、少しだけ悲しくもあった。
他愛もない、むしろ言い訳ということが見え透いている理由でふらりと各部屋を訪れ、あるかないかの用を足し、ついでの振りを装ってJの様子を聞きそしてふらりと去っていく。日に何度も繰り返されるがためにすっかり馴染んでしまったその光景には、やはりこちらもまた、最近すっかりお馴染みになったJの困惑気味な表情が続く。はじめはまったくの無反応だったのだから、これだけの変化を引き出せただけでも回数を重ねた土屋の優勢、というのが所員たちの見解だ。
時計を見上げ、憂鬱そうな表情を隠しもせずに重苦しい溜め息をこぼした子供に、隣のデスクでディスプレイに向かっていた主任研究員が小さく笑声を上げた。
「そろそろ、巡回の時間かな?」
いたずらっぽい声で話しかけられ、Jは上向いていた首を下げ、じっと見つめてくる所員へと視線をわずかに流した。からかい半分なのか本気なのか、所員たちは皆、土屋のうろつく習慣を所内巡回と呼んでいる。その呼称はともかく、行動が意味する本当のところが、己の探索と様子見にあることすらわからないほど、Jとて鈍くはない。返す言葉を探す気力はなく、返答の代わりにもうひとつだけ、小さな溜め息が唇をすり抜ける。
「博士は、君のことが大好きなんだよ」
宥めるような口調で苦笑交じりに「ちょっと鬱陶しいけど、我慢をしてあげてくれないかな」と告げられ、Jはますます眉根を寄せる。
溜め息の真意は、土屋の行動を疎んじてのことではない。
常ならば他者から自らに向けられる勘違いや思い込みは放置しておく主義だったが、誤った情報が土屋の耳に入った場合の反応は想像に難くないし、それはJの望むところではない。ならば、ここはひとつと少しだけ常のスタンスを変え、Jは話しかけてきた研究員を振り仰ぎ、珍しく自らの言葉を紡ぐべく口を開く。
「我慢は、していません」
室内にいた他の所員と軽く笑いあっていた彼を含め、誰もがJは無言で受け流すと思っていたのだろう。思いがけない反応に、室内の視線は一瞬にして一点へと集中する。
「ボクの存在で、博士の仕事を妨げるのが、嫌です」
全身に刺さる視線に身じろぎながら、Jはごく小さく呟く。
「ご迷惑は、なるべくおかけしたくないのに」
落とされた声は幼くも言葉に込められた思いは重く、音を立てて床に転がるかのようだった。
悲哀のこもった声を、Jは自覚しているのかいないのか。思わずまじまじと子供を見つめていたいくつもの瞳はゆるりと眇められ、部屋に溜まりこんでいた空気はやわらかいぬくもりを得る。唇を噛み締めている子供を、顔を見合わせてはやさしく見やる所員たちの胸に、どうしようもない愛しさが滲み出す。
「じゃあ、こういうのはどうだろう?」
正面から降ってきたあたたかな声に、Jははっと顔を上げた。きょとと目を瞬かせ、それから気まずそうに視線を泳がせる。ひと言で終わらせるはずだったのに、らしくもなく長々と言葉を口にしすぎた。ずっと頑なに守っていた境界線をうっかり踏み外してしまったことへの戸惑いと自己嫌悪が、ぐるぐると渦を巻く。
包み込んでくれるぬくもりに、やさしさに。溶け込んでしまう権利はないから。その深みのあるあたたかさに、気を抜けば甘えたいと願ってしまうから。だから、いっそそんなものを向けないでくれればいいのにと、必死になって築いていた防衛線だったのに。
気づけば浸食されている。その事実を自覚させられたことが、とてつもなく怖かった。なんと傲慢なのかと、自己の内面に吐き気を覚えると同時に、この上なく恐ろしいのは、このやさしい人たちにそういう目で見られること。
境界を守るから、己の領分はわきまえるから。だから、せめてはたゆたっていたいこの限りないやさしさを失うことこそが怖い。そして、そんなことを望むようになってしまった自分の、行き着く先が見えないことが怖い。
「博士の巡回が気になることに変わりはないんだろう?」
表情を殺して俯いてしまった子供に少しだけ悲しみを覚えたが、研究員は気を取り直し、やさしい笑みを添えて問いを向ける。ちらりと視線を上げ、逡巡を挟みはしたものの、Jは小さく顎を引いた。確認される事実にはなんの異議もない。
「だったら、君から時々、顔を見せにいってあげてごらん」
告げられた言葉の意味が理解できず、Jは小首を傾げることしかできなかった。
首をわずかに右に傾け、小さく眉根を寄せる。それは、Jが己に向けられたことを理解できずに、思考の海に潜るときの癖だ。そして大概、その後にはなんらかの形での否定が示される。
気遣われることに慣れることのできない子供の姿は、痛々しいほどの切実さに彩られていて、とても切ない。やさしさをもって触れられることも、やわらかな言葉や思いを向けられることも、すべてを否定して、自分にはそんな価値はないのだと、音にせずそれでも雄弁すぎるほどに訴える。せめては肯定するという選択を持っていれば、もう少し容易に、土屋をはじめ、彼へ思いを向ける人間の内心を、正しく素直に理解することができるだろうに。
思いはしても決して告げてはいけない言葉を胸に、主任研究員は息を吸い込む。
「あれは、構って欲しい証拠だね。君に、もっと構って欲しいんだよ、博士は」
身に覚えがあるからよくわかるよ、と続けた言葉には、部屋の別方向から「だから娘さんに嫌われるんですよ」という野次が入る。
「たとえば、コーヒーでも入れてさしあげたらどうだろう?」
いかにも不機嫌な顔を取り繕ってちらりと振り返ると、手振りだけで黙るように告げ、楽しげな笑い声を背中に、研究員は提案を送る。
「博士の巡回の時間は、休憩の時間に重なっているからね。逆にこちらからコーヒーでも持って書斎に行ってあげたら、絶対に驚いて、それ以上に喜ぶよ」
「ああ、それがいいですよ」
「目に浮かびますね、博士のやにさがった顔!」
笑いの発作の納まったらしい所員たちから口々に後押しを受け、話の展開についてこられていないのだろう、戸惑いに目を見開くことしかできずにいるJの肩を押して、研究員は半ば強引に部屋の入り口へ。
「あ、あの?」
「博士の休憩の時に使っているカップを教えてあげるから、さっそく実践してみようか」
いってらっしゃい、と声をそろえる所員たちに見送られて、二人は給湯室へと向かう。
なんとなく流されて辿り着いてしまった土屋の書斎の前で、Jは手にしたトレーとマグカップを見やり、廊下の少し離れた位置で見守る主任研究員を見やり、そして目の前の扉を見やった。
ふと思い立って口を開いてから、今日はなにかが違っている。そしてきっと、この扉を開けたらば、またなにか、違う方向へと状況が転がっていく気がする。どんどん思いがけない方へと流れていく渦に巻き込まれている自分を知りながらも、Jはもはや、抗おうとは思わなかった。
中途半端に抗うことでどうすることもできない心を持て余すなら、いっそ流されて、行き着いた先でまた新しく結果を考え直せばいい。それは、胸の内を見透かしたように、コーヒーの入れ方を指南してくれた研究員に告げられた、今日一番のアドバイスだ。
もう一度だけ、離れたところから送られるあたたかな視線を振り返れば、ぐっと握り締めたこぶしを胸元に、力強く頷かれた。
すっと息を詰めてから扉に向き直り、握り締めたこぶしで小さくノックを送る。返ってきた声に入室の許可を問えば、給湯室で笑い混じりに予告されたとおりの慌しい物音が室内を満たす。自然と緩んだ頬に内心驚きを隠しきれないまま、Jはそっと、ノブをひねって扉を押し開けた。
fin.
心の扉の鍵は、錆びついた上にどこかにいってしまって、自分ひとりでは見つけられない。
でも大丈夫、そんな時のために、スペアキーは山ほど用意してある。
あとは君が、心をそれと決めるだけ。
オープン・セサミ --- 『開けゴマ』の呪文。
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