■ アイロン
 夜、ふと水を一杯飲みたくなったJは、部屋を抜け出し、キッチンへと向かった。なんとなくではあるが、確実に間取りを覚えてきた廊下を曲がり、勝手知ったる様子で目的地を目指す。
 隣接するリビングから、薄暗い廊下に明かりがこぼれている。どうやらそこにいるらしい新しい保護者に、もし声をかけられたら何と言おうか。とりとめのないことに悩む、慣れない己に僅かに表情を歪め、Jは気づけば止まってしまっていた足に、苦笑いを浮かべる。
 彼はやさしい。
 怯える必要などどこにもないのだろうと、理性では既に理解ができていた。ただ、あまりに自分の中にあった常識からかけ離れた事態に対して、感覚が追いついてこないのだ。
 キッチンに入るには、どうしてもリビングを通過しなくてはならない。深呼吸ひとつでバラバラに崩れかけていた表情を元に戻し、Jはあくまでさりげなく、明るい光の中へと足を踏み入れる。
「おや、Jくん。どうしたんだい?」
 当たり前のことではあるが、部屋の中には土屋がいた。どうやら、ソファーに座り込み、なにやら作業に勤しんでいたらしい。予想に違わずかけられた声には、前もって用意していた言葉を即座に投げ返す。
「喉が、渇いたので」
 水を飲みに、と。皆まで言うことはなかった。あいまいに語尾をぼかして反応を探れば、土屋はにこりと笑み、冷蔵庫の中にミネラルウォーターがあると返してくれる。了解した意は小さな頷きのみで示し、もともとないに等しかった足音を更にひそめ、Jはするりと身を翻す。
 食器棚から適当にグラスを選び出し、シンクに置いてから冷蔵庫までは三歩。静かに扉を開け、ポケットからペットボトルを取り出す。まだ開けてからほんの少ししか経っていないそれは案外重く、両手で持てばよかったと、左手首にかかる負荷に、Jは小さく眉を寄せる。
 冷気が逃げ出さないうちにさっさと扉を閉め、こぼさないよう気を配りながらグラスに水を注ぎ、まずはペットボトルを冷蔵庫に返してから、ようやく一口、冷たい水を喉へと送る。一連の作業を流れるようにスムーズに、それでいて決して、向きを変えるときでさえリビングにいる土屋を視界に入れずにこなしていたJは、背中に刺さる視線に根負けした己を知る。そして、慎重に表情を整えてから、やはり何気ない所作で振り返った。


 調理器具やらでごちゃごちゃとしていた視界が一気に開け、Jはその中心に、自分に向かって浮かべられている穏やかな笑顔を見る。
「いりますか?」
「いや、大丈夫だよ。ありがとう」
 沈黙が気まずく感じられ、何とか逃れようと思って口にした言葉は、相手にとって意外なものだったらしい。一旦眉を持ち上げて目を見開いてから、土屋は実に嬉しそうに笑い、もう一度「ありがとう」を繰り返した。
 すぐにでも逃げ出してしまいたいと訴える内心を叱咤し、Jはもう少しだけ勇気を振り絞り、土屋の方へと近づいてみる。
「何を、なさっているんですか?」
「明日、ちょっと外で会議があるという話をしただろう?」
「はい」
「だからね、アイロンをかけているんだ」
 ひょいと右手を上げて示した土屋の持っているのは、確かに、独特の形状の小型家電と、そこから上がる湯気。ただ質問にだけ答え終え、土屋はアイロンを置くと、身体ごとJに向き直ってきた。
 それでも彼は、何も強要しない。自分の方に来るようにと、誘うことさえしない。ただにこにこと、Jが口を開くたびに、笑顔に刻まれる喜色が深まっていくだけだ。近いとも遠いとも言えない、キッチンとソファーとの中間の距離で立ち止まっていたJは、そのまますぐ横にある出入り口から廊下へ逃げ出したいと思う心を黙殺した。土屋に気づかれないよう、細心の注意を払って呼吸を整えると、慣れない行動を起こそうとしている自分に対して不規則に早まっていく鼓動を聞きながら、もう一歩、足を踏み出した。



 何とか土屋のすぐ脇まで近づくことに成功したJは、ソファーの背中越しに、テーブル上に広げられたワイシャツと、その下にあるアイロン台とを視認する。
「普段から、ぱりっとしたシャツと白衣を着ていれば、少しは格好がつくのかもしれないんだけど」
 なかなか時間がとれず、しかも不得手となれば、仕事はどうしても後回しにされ、忘れ去られ。どうにもならないな、と呟きながら、土屋は作業の続きを行なうべく、再びアイロンを手に取る。それから、まだその場から動き出そうとしないJに振り返ると、立っていないで座ったらどうかと、はじめて行動を提案する言葉を発した。Jは僅かに驚きを含んだ様子で小さく目を見開いたが、しばしの逡巡の後、おとなしく土屋の隣に腰を下ろした。
 今度は、土屋が驚く番だった。普段から接触を拒み、他者との関係図の中に放り込まれればただ困惑をみせるだけだった子供が、自ら傍によって来るなど、珍しくて仕方なかったのだ。もっとも、そんなことは表情にも雰囲気にも出さない。出したが最後、きっとこの臆病な子供の心はますます閉ざされて、近づくことができなくなってしまうだろうことを、土屋は知っているから。
 左手で布地を伸ばし、アイロンをあててゆっくりと動かしていく。
「見せられたものじゃないんだけどね」
 我流だから、どうしても皺が残ってしまう。Jの視線が、まだしわくちゃといってもいい領域にあるワイシャツに留まっているのを横目で見てとり、やり方をきちんと学べばよかったと、土屋は照れくさそうに微苦笑を浮かべる。
「出来るでしょうか?」
「え?」
「それ、ボクにも出来るでしょうか?」
 唐突に耳に届いた単語に、土屋は思わず手を止め、隣に座る少年をまじまじと見詰めていた。
 膝の上でコップを包む手を力いっぱい握り締め、頬を僅かに紅潮させて、どうやらJは、緊張しているらしい。どうしてこうも、今夜は珍しい彼の表情を目にするのだろうか。土屋はもはや、驚きを隠すことも忘れている。
「あの、ボクにも何か、仕事をさせて欲しいんです。引き取っていただいて、たくさんご迷惑をおかけしているのはわかっています。それでも、ボクには何もお返しすることは出来なくて――」
 まじまじと見つめられ、Jはしどろもどろながらも必死に言葉を紡ぐ。いつになく感情的な様子に、土屋は咄嗟に返す言葉が出てこない。
「なんでもいいから、少しでも、お役に立ちたいんです」
 この場所にいてもいいのだと、そう、許容してもらえる『理由』が欲しいから。いらなくなったら切り捨てられる。それは知っているから、せめてその日まで、存在を認めてもらえると知るための、バロメーターが欲しい。


 困りきった様子で詰まり、それから必死になって声を絞り出した子供に、土屋はますます目を見開く。追い詰められた様子をみせるJが、何にこんなにも怯えているのか。子供の内心とは裏腹に、その見当がまるでつかなかったのだ。だからただ、土屋はこれ以上追い詰めてしまわないようにとだけ願い、そっと言葉を選ぶ。
「もちろん、アイロンはそんなに危ない機械でもないし、君は器用だからね。すぐにも使いこなしてくれると思うよ」
 むしろ、自分なんかよりもよほど上手に扱うだろうJを正しく想像でき、土屋は微笑を浮かべる。
「使い方を覚えたいなら、いつでも教えるよ。だからね、そんなに悲しいことを言わないで欲しいと思うんだ」
 肯定の返事を聞いてあからさまにホッとした表情をみせるJに、土屋はゆっくりと続ける。
「私は君を迷惑だと思ったことなんかないし、君が研究を手伝ってくれるおかげで、いろいろなことが前に進んでいる。豪くんたちレーサーの意見も前よりずっとスムーズに入ってくるようになって、本当に助かっている」
 きょとんとした様子で見つめ返してくるJに、己の価値を知って欲しいと、土屋は思う。過小評価の必要などない。もっと自分に自信をもって、前を向いて欲しいのだ。
「君がそこに自然体でいてくれれば、それが一番嬉しいんだよ」
 思いを言葉に込め、そして重ねるごとに、Jの視線は床へと落ちていく。表情は隠され、感情は殺され。硬く心を閉ざした、傷だらけの人形が残される。
 今夜はここが引き際だろうと、土屋は行き過ぎないことを心がける。そして、黙り込んでしまった子供の頭を軽くなで、もう一度アイロンを握りなおす。
「今夜はもう遅いから、とりあえず、見ていてごらん。明日にでもまた、ちゃんと細かく使い方を教えてあげるからね」
 話題がずれたことで、少しだけ気分を持ち直したらしいJが黙って首肯し、視線を上げる。それを視界の隅で確認してから、土屋は改めて、シャツの皺へと重いアイロンをあてなおすのだった。
fin.
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 少しずつ、ひとつずつ。変えていく、変わっていく。
 いつでも腕を開いて待ち受けてくれている彼を、ようやくきちんと見つめられるようになった彼。
 少しずつ、一歩ずつ。足を踏み出すことを知っていく子供。

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