■ 期待値理論の破綻まで
 思いもかけない形で本人の意思を裏切った肉体は、しばらくストライキを決行することにしたらしい。ぐらぐらと揺れ動く視界と、頭蓋骨に響くような鼓動は、あからさまな体調不良を伝える。そしてベッドサイドから、とどめの一言。
「熱が下がるまで、絶対安静」
 険しい視線が睨み据えているのは、ベッドに横たわる少年からは見えない、体温計のちっぽけな液晶画面だ。いつになく厳しい口調で告げられた言葉に、Jは反論するだけの余力すら残していなかった。
 常ならば多少の無理や我慢は押し通すのがJの生活スタイルだったが、さすがに環境の目まぐるしい変化とそれに伴う緊張とで、意地で保っていた精神面はともかく、物理的な限界値を軽く突破していたらしい。意思の支配下からいつの間にか逃げ出していた体は、動かそうという神経伝達に、頑として従わなかった。
 慣れない状況に不安定な感触を覚える思考もいまは鈍り、ただぼんやりと、続けざまに投げかけられる言葉を、鼓膜の上でいたずらに躍らせることしかできない。意味を取れない音の羅列は、疲弊し、麻痺した神経網を緩やかに冒していく。徐々に霞み、狭まり、白んでいく視界をまずいと判断する頃には、いぶかしげに名を呼ぶ土屋の声が、ずっと遠くで響き、消え去っていくだけだった。


 どうやら眠り込んでしまったらしい子供を一瞥し、土屋は深々と、胸の奥に溜まっていた息を吐き出した。
 貧血で倒れたところを介抱してからそう日にちは経っていない。こんなことではいけない。無理などさせないよう、しっかりと見ていてあげないと、と思っていた矢先にさっそく発熱で倒れられてしまっては、面目などもはや潰れる余地もない。気休め程度に掛け布団の位置を直してやりながら、土屋は暗く沈んでいく思考をなんとか振り切ろうと、もう一度、大きく溜め息をついた。
 自己嫌悪に陥っている暇などない。
 ベッドの中でもがいていたところを見つけた時点で、見逃す気は微塵もなかった。思考回路が熱で飽和しているだろうことは額を探るまでもなく顔色ですぐに察しがついたが、計ってみた体温計の示した数字は、もはや自分の判断だけで片付けられないことを意味していた。
 まずは近所の医者を探して、診てもらわないといけない。辛いだろうから、食事にはおかゆでも作ってあげた方がいいだろうし、さすがに先日の今日でこれなら、本人申告の「もう大丈夫です」は信じてはいけないだろう。きちんと体調が良好になるまで、これ以上の無理などさせないよう、目を光らせている必要がある。
 貧血で倒れられたことにただパニックを起こすことしかできなかったことを反省して、実は最近、家庭の医学を購入してきたのだ。読めば読むほど気をつけなくてはいけないことを思い知らされる気がして、つい夜更かしをしてしまい、多少の睡眠不足であることは否めない。それでも、わずかなりとも知識がついた分、前回とは対応が天と地ほどの差をみせているのは自分でもよくわかる。
 夜更かしによるにわか知識に少なからぬ感謝をしながら頭の中でなすべきことを羅列し、土屋は眉根を寄せて眠り込む子供の顔色をうかがうと、まずは濡れタオルを用意するべく、そっと部屋を出た。



 時おり戻ってくる朦朧とした意識の向こうで、誰かが自分に対して細やかな気遣いを施してくれていることが知れる。だるさを感じるからには現実なのかもしれないが、やさしさにふんわりと包まれているのを感じられるのは、夢の中だからなのかもしれない。取り留めなくそして無意味な思考を連綿と紡げるのは、平坦な時間が自分を取り巻いている証拠だ。
 額や首筋の汗を拭われる感触がくすぐったくて、Jは少しだけ身じろいだ。
 ぼやけた意識と、額に乗せられる手と、求めた視界に映る、心配そうな、やんわりと淡い微苦笑。
 明確な輪郭を持たない光景は、どこかでなにかに重なりを覚える。幾重にも重なっては融け合っているそれを把握しようと、過剰な熱量に飽和し、決壊してしまったらしい記憶の渦に手を伸ばす。
 手応えはなく、でも掴めそうな気がして。薄く眇めた瞳が、しかし、見慣れた白衣を認識することで、すべての夢想は一気に醒めた。背筋が粟立つ感触にこの上ない不快感を覚えながら、Jは慌てて、体を起こすという行動を選び取る。
「ああ、駄目だよ。まだ熱が下がっていないのに」
 だが、咄嗟の判断に実際の行動は伴わなかった。肩を抑えられてしまったというのがひとつ。そして、体力が追いつかなかったというのがもうひとつ。
 一気に覚醒した思考回路は、状況の不自然さに警鐘を鳴らすと同時に、先ほど得た判断への疑問を呈する。Jの見慣れた白衣を常用するあの人は、体調不良に際してわざわざ側にやってくるような、そんな甘やかし方はしない。
「どうしたんだい? 喉が渇いた? それとも、汗が気持ち悪いかい?」
 サイズが合わなくて申し訳ないが、着替えなら用意してあるよ、と。あの人だと仮定することさえできないような発言が脳髄に染み込んできて、ようやく、Jは混乱からの脱却を遂げる。


 冴えた意識が、視界にしっかりと相手の姿を映し出す。安堵したように細められた双眸はあくまでやさしく、その向こうには、最近やっと馴染んできた壁がある。
 疲れたような、困ったような、でも少しだけ嬉しそうなあいまいな笑み。見慣れない表情と、耳慣れない気遣いの言葉。
 じわじわと。肌から、鼓膜から、角膜から。際限なく沁み込んでくるそれらに対して、湧き上がるのは困惑と不快感と、抑えきれない期待感だ。
 願ってはいけない。欲してはいけない。その先に待っているのは喪失であり、願いが深く欲が切実であればあるほど、喪失もまた底知れないのだと、嫌というほど体に叩き込まれた。なのに、その鉄則を忘れそうになってしまう自分を、Jは知っている。
 空っぽだったはずの心に染み入ってきた思いは、なんの痕跡も残さずに流れていくはずだったのに。冷め切った感情を揺さぶる思いは、どんな結果も残さずに通過していくはずだったのに。
 溺れてはいけない。惑わされてはいけない。わかっているはずなのに、少しずつ膨れ上がってきていた衝動が理性の警告を浸食し、少しずつ、ベクトルの方向性が変わっていく。理屈が、感情に呑まれていく。
「Jくん?」
 いぶかしむように気遣うように、呼びかける声は、やさしく髪を撫でる手のぬくもりと共に、体中に染みてくる。それは、抗いようのない現実。


 知らず乱れた呼吸が落ち着くまで、静かにただ頭を撫でていてくれた土屋に、Jは深呼吸をしてから焦点を合わせた。願いは裏切られる。希望は打ち捨てられる。それは硬くて冷たい数式の弾いた答であり、あたたかいこの人はきっと、その結論を打ち破る。
「傍に、いさせてください」
「もちろん。私も、君の傍にいたいからね」
 掠れた声で脈絡もなく紡いだ望みが、どれほど重くそして身勝手なものかは知っていた。それでも、止める理性よりは促す感情が強く、間をおかずに返された肯定の声のぬくもりに、歓喜に震える全身を知る。
 もしかしなくても、自分の意図は正しく伝わっていないだろう。だが、それで構わないと思う。答に辿り着くのは結局自分自身なのであり、そのために傍にいられるのなら、別に多少の勘違いなど、されていても構わない。ただ、受け入れてもらえたことが嬉しい。
 安堵と熱とでもう幾度目かもわからない眠りに落ちる中、Jは可能性すら見えなかった時間を思い、音にせず祈った。
 どうか、いままで自分が築いてきた悲しく切ない期待値の数式が崩壊する瞬間に、この人の傍で立ち会えることを。
fin.
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 理屈だけで成り立っているわけではない世界を見せてください。
 思いによって覆る理論があることを教えてください。
 切なる願いを募らせる子供を、それと知ることはないけれども、それと察して包み込む人。

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