■ sequencer
 息苦しさに耐えること自体は、肌に馴染んだ行為だった。押し殺して、包み隠して、それで微笑みを貼り付けているのは、実に息が詰まるから。
 微笑みを貼り付けるのは最近追加された習慣だが、思いを押し殺し、感情を包み隠すことには慣れている。あまりに馴染みすぎたがために、自分ですら押し殺している内容を把握できず、沸きあがる未知の感覚に戸惑うほどに。
 頭の奥が痛むと感じた。原因の明確な、前向きな痛みの類ではない。知らず紙の端で切ってしまった傷口に気づいたときのような、後からじわりとやってきて、気づけば神経を浸食されている類の痛みだ。最近、この手の慢性的でわけのわからない頭痛にさいなまされる率が高くなっている。対処の難しい体調不良は、もっとも歓迎されざるものだというのに。
 傷口が見えない傷は、癒すのに時間がかかる。薬をつけようもなく、さらに痛めることのないように気遣うこともできない。表面には痕跡を見せることなく、じわじわと触手を広げていってしまう。気づいたときには既に遅く、そして、気づくことができればまだましなのだから。


 もやもやと、胸の辺りになにかがわだかまっている。だが、Jにはそれを定義する術がない。なんとなく不快なのはわかるが、その原因にも解消法にも心当たりがない。それがさらに不快で、そのことに思考を傾ければ、さらにもやもやは増大していく。把握が追いつかずに胸中に巣喰う正体不明の存在に呑まれてしまいそうな錯覚を覚え、Jは息を詰めた。
 落ち着こう。そう、Jは己に言い聞かせる。頭痛も、そしてこの胸のむかつきも。気にしてもわからないのなら、目を向けなければいいだけの話だ。そんなことには慣れている。
 こめかみを押さえてひとつ息を吐き出す。呼吸ひとつで自制心の回復とわけのわからない感覚の無視に成功したJは、しかし、思わず眉をしかめていた。視界に入ってくる光が不快だったのだ。
 人工の明かりと自然光と、光の強度も色彩もさして変わらないはずなのに、どうしてこうも感じ方が違うのか。それがわからない。
 目の隅に感じた窓の向こうの光景に、思わず逃げるようにして首をめぐらす。パソコンのディスプレイが放つ、わずかに青みを帯びた白色光のほうが、見ていて落ち着くと感じたのだ。
 抑えたはずの苛立ちが戻ってくる感触に、Jは次のステップに進むことにした。
 自制心でどうにもならない状態が襲ってきたときには、素数を数えることにしている。声に出さず口の中で数を刻めば、頭の中を占めていた雑多な思考は鳴りを潜め、いつしか無機質で秩序だった、意味のない思考の羅列がすべてを占めるようになる。そうすれば、わけのわからない感情に翻弄されることもないし、惑うこともなくなる。なにもかもが過ぎ去るのを待ち続けるJにとって、それは精神安定剤にも似た絶対的な依存の対象だった。
 画面の向こう、マス目の中に納まっている数値を整理しながら、Jはカウントを始める。こうして複数の思考を一時に行なえる辺り、自分はなかなか器用な性格をしているのではないかと、ときどき思う。
 数値の海に深く溺れれば溺れるほど、感覚が麻痺していく。なにも感じなくなり、ただ反射的に、頭の片隅で目に映る数値を処理しては指先に指令を伝える。機械的な作業の繰り返しは、この上ない安心感をJに与える。惑う必要がない。なにもわからない自分に恐れ戦き、そして進むべき道に迷う心配がないことは素晴らしい。



 ふと意識が表層に戻った瞬間には、いつだって眩暈を感じるものだった。世界が一旦平衡を失い、ぐらりと傾いてから戻ってくる。Jにとってはそれが、集中力を途切れさせたという自覚だ。
「目が覚めたかい?」
 だから、平衡を取り戻した世界から響いてきた声を理解できずに、Jは二、三度、瞬きを繰り返した。なにがどうなっているのか。とりあえず自分のいまの状況を把握しようという結論に至るよりもわずかに早く、額に乗せられる手があった。なにかを恐れるように、その手はJの額に触れる寸前、わずかに距離を広げ、それからそっと、壊れ物を扱うような所作で接触してくる。
「少しは戻ってきたみたいだね」
 やわらかいというよりは、少しごつごつした感触だった。あたたかいと思い、それからJはようやく、視線を転じることを思い立つ。そもそも、なぜ自分の視界に、処理をしていたはずの数値の羅列ではなく、ただ無機質に広がる天井が映し出されているのか。ようやく違和感を覚えて体をうごめかすも、額に乗せられたままの手が、それを許さない。圧倒的な力で押さえつけられているわけでもないのに、体が言うことをきかなかった。
「まだ寝ていなさい。少し、と言っただろう? もっと顔色がよくなるまで、横になっていたほうがいい」
 告げられた言葉に、Jは自分がなにかに横たわっていることをはじめて自覚した。声の主に焦点を合わせれば、やんわりとした笑みが返される。疲れたような困ったようなあいまいな笑みは、Jにとってまだあまり見慣れない表情だった。
「……」
 数秒の黙考の後、Jはその表情の持ち主の名前を、記憶の中から呼び起こす。彼は、新しい自分の養い主。
「なんだい?」
 あくまでやわらかく、見つめる視線に返される声があった。問いかけたいことはいくつかあったが、Jは言葉を発することに躊躇いを覚える。あまりに不慣れな状況に、困惑と不安の只中に放り出されて、声の出し方を見失っている。自分の中で冷静に判断することはできても、Jにはその先がわからない。彼に従わなくてはならないのに、彼からの問いに答える術を持っていない。戸惑って、さらに困惑して。Jはただ、そんな己をなるべく悟らせまいと、表情を押し殺して内心を隠すことしかできない。


 しばしの無言の対峙を経て、沈黙を破ったのは土屋だった。ごくごく小さく息を逃がし、あいまいな笑みには悲しげな表情が追加される。
「倒れるほどの我慢を、しないでもらえると嬉しいと思うよ」
 ゆっくりとJの額から手を離し、土屋は少しだけ首を傾げてみせた。
「軽い貧血だと思う。もう一眠りしたら、きっと少しは気分がよくなるだろう。あまり、溜め込みすぎるものではないよ。疲れも、感じていることもね」
 諭すように告げられた言葉を、Jは聞き流すことにした。別に必要なことではないと判断できたし、言われていることが理解できなかった。なにより、それは先ほど数字を刻むことによって押し殺すことに成功した正体不明のなにかを呼び起こしかけたのだ。そんなものに耳を傾けるゆとりはない。
 ゆっくりと視線を土屋から外し、Jは天井を眺めやる。意識の外に叩き出せば、言葉は意味を成さない音の羅列となって、左右の鼓膜をただ通過していくだけの存在に成り下がる。内容は理解しているし、必要とあれば記憶にとどめる。必要なければ、記憶に刻む暇も与えず、音ごとデリートしていくだけだ。
 意識を逸らしたことをどう判断したのか、もう一眠りするといいとだけ告げて、土屋は静かにJの傍を立ち去った。
 ひとり言だったのかもしれない。聞くつもりはなく、意識に上らせるつもりなどさらさらなかったのに、いつの間にか頭に刻み込まれていた言葉。立ち去る寸前、ごく小さな声で悲しげにかけられたそれの意味を知るのは、いまではないとJは思う。


 あの声音に込められていたのは、純粋な哀しみだったのか、憐憫の情だったのか、それとも侮蔑のカムフラージュだったのか。そんなことを疑う自分には、答を求める権利などないと思う。
 それでも、体の奥底でじりじりと燻る熱があることも知っている。
 その熱が、必死に押し殺したはずの正体不明のなにかに繋がっており、そして同時に、ずっと自分を悩ませている頭痛の原因の一端であろうことも察している。
――どうしたら君は、フィルターの向こうから出てきてくれるのかな。
 頭の中で土屋の言葉を反芻したと同時に、込み上げてきたのは吐き気と頭痛。だからJは、考えを放棄して素数を刻みはじめる。先ほどいくつまで数えたかは覚えていないから、もう一度、はじめから数えなおしだ。
 いままで数え続けた素数を、いちいち仕切りなおすのではなく、もしも通しで数えたなら、一体いくつまで数えていたのだろう。
 考えたこともなかったことを、らしくもなくふと思い立ち、そして行き着く最後の数を想像できない事実を自覚して。
 さらに大きな波となって襲い掛かってきた頭痛と胸元のむかつきに、Jは視界を閉ざし、小さな声で数字の列をなぞりはじめた。
fin.
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 ぐるぐると螺旋を描く。逃れられない螺旋を自ら描き、その内に囚われていることに気づけずにいる。
 思考を呑み込む螺旋を描く。他に手段を何も知らないから、ただひたすらに、螺旋を辿る。

 sequencer --- 順序に従って制御を進めていく装置。アミノ酸配列分析装置。

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