■ 虚貝
 完璧に作り上げた微笑を浮かべるたびに、土屋は悲しげな笑みを返してくる。無表情でいれば辛そうな表情をされてしまうことを学び取り、どうすればいいのかと考えての苦肉の策だったのに、そんな反応をとられたのでは苦心の甲斐がない。知らず増えていく溜め息の数に、Jは完璧でありながらバラバラな笑みの形が、さらに崩れていくのを知る。
 それらを取り繕ってより完成された笑みを浮かべることに伴う苦労を滲ませないことへの労力は、Jの予想以上の消耗をその身に強いていた。
 強要されないことがかほどの苦痛だということを、Jは知らなかった。
 枠を定義され、レールを敷かれ、わずかにでもはみ出すことのないようにと目を光らされていることに、なんらかの感慨を得たことはなかった。だが、与えられ続けた枠とレールを、今度は自分で定義し、自分で敷けといわれても、Jにはわからない。それは禁じられた第一項目であり、真っ先に切り捨て、いまはどこかに埋もれて消えてしまった、遺失物の中の一項目なのだから。
 覆された価値観の中、なにをどうすればいいのかがわからないならとりあえず、相手からマイナスの反応を引き出さなければいいだろうとの判断を、Jは間違っているとは思わない。
 ただ、その判断を実行に移すに当たり、相手と自分との間に、どうやら埋められない判断基準のずれがあるらしいだけで。


 押し殺すな、と土屋は言うが、それは不可能なことだとJは思う。
 確かに、烈や豪といった面々と接しているとき、Jは自分の中に、おそらくは感情のうねりだろうものが沸き起こっていることは知っている。ただ、それを冷静に観察できてしまうぐらい、Jにとっては馴染みのないものであり、遠くかけ離れた感覚なのだ。
 反応が表面に出るのは、化学反応に似ている。
 烈たちという特殊な触媒が間に入ってはじめて、Jの感情は硬い殻を突き破って表情に上るのだ。それすら常ではないのだから、ひとりでいる折にも同じように、内心の変化を表面に出せといわれても、Jにはどうしようもない。相手の満足を得られるようにと笑みを形作るだけでも、努力を認めてもらいたいぐらいだというのに。
 自身で処理することはおろか、把握することすら叶わない、どうしようもない内心の奔流を曝け出すには、なにもかもが足りなかった。曝け出したところでなんになるのか。なにを得て、なにを失うのか。なにもわからないのに、己の最深部に近いそれらを表面化させるなど、恐ろしくてできるはずもない。禁止項目のトップに記されていたそれを破られてから、さして時間が経ったわけでもないのだ。
 受け入れるのはおろか、理解する領域にさえ達していないということを、しかしJは、やはり怖くて言い出すことができずにいる。



 宥める言葉と諭す言葉を交互に舌に乗せながら、土屋は注意深く目の前の子供の表情を探る。探っていると気づかせるわけにはいかない。やたら勘の冴えている子供を相手にするのは骨の折れる作業だったが、そこはやはり、年の功である。
 そっと、不自然にならない程度に身を引きながら表情を読み取ろうと努力し、そして失意の溜め息を後からひとりでこぼすのだ。
 学習能力の高い子供だと、Jについて、土屋はそう思う。
 事実、知能指数という意味での能力の高さは引き取って数日も経たない内に明らかになったし、研究所内でのルールや間取り、果ては土屋や他の職員ですら把握しきれていなかった資料室の棚の攻略法まで完璧に身につけられては、もはや返す言葉はない。
 大人びた、どこかに諦念を滲ませたような疲れ切った微笑を浮かべるさまには、まだティーンエイジャーにすら達していない子供であることを忘れさせられる。その表情は心を映すものでなく、周囲の表情から学び取って、仮面として会得したものだろう。
 仮面を使いこなし、綺麗な嘘で内心をぼやかすのは、大人の専売特許のはずなのに。
 じっくり時間をかけて学び取っていくはずの技術を完璧に身につけて、Jは周囲に相対する。戸惑いと怯えと、そしてどうすることもできない虚無感を見事なまでに覆い隠して振舞う姿からは、子供があっという間に新しい環境に馴染んでくれたかのような錯覚を起こしてしまう。
 だから、土屋は恐怖した。
 笑ってほしいと、心を縛ることなく過ごしてほしいと切望しているのに、子供は真逆の方向へと勝手に進んでいってしまう。それどころか、その場その場で求められる表情と雰囲気とを駆使する子供に、自らに向く注意が散逸した瞬間を狙って虚無を身に纏う素顔を覗き見てしまったのだから。


 目を覚ましたJは、横合いから覗き込む土屋を見ても、特に大きな反応を示そうとはしなかった。顔色が悪くいつも以上に疲れ切った様子を滲ませる以外、子供は日ごろとの差異を一切土屋に見せようとしなかった。
 ただ、己の言葉を聞きながらいっそうの無表情へと瞳の光を変化させるだけ。そんなJに、土屋は表情に混じる悲哀の割合を増大させる。
 視線を天井へと戻し、瞬こうともせずにじっと横たわっている姿はまるで人形のようだ。
 きっと、表情を変化させたことすら、本人には自覚がないのだろう。それが恐れゆえの行動だということを、知ることすらできていないのだろう。
 もっとも、そう思う一方で、土屋は思う。倒れた原因を、もしかしてこの子はわかっているのではないかと。
「どうしたら君は、フィルターの向こうから出てきてくれるのかな?」
 音にする気はなかったが、言葉は思ったよりもあっさりと唇を割っていた。
 十分に追い詰められて、ぎりぎりの状態を保っているだろう子供をこれ以上追い詰める気はなかったから、土屋は思わぬ失態にさっと青ざめる。しかし、子供はやはり何の反応も示しはしなかった。傷ついた様子すら、見せてはくれなかった。


 気休めだとはわかっていても、せめては人肌の温度が思いの丈を伝えてくれることを願って、土屋はJの額をもう一度そっと撫でてから腰を上げた。これ以上傍にいても、少なくともいまは子供の負担にこそなれあまり良い影響はないと、悲しいほどにわかりきっていから。
 もう一眠りするように告げて廊下に滑り出ると、土屋は胸の中に溜まりこんでしまった息をゆっくりと吐き出す。
 自覚がないのではなく、知ることができていないのではなく。あの子はもしかしたら、自覚することも知ることも、予感しつつ拒んでいるのかもしれない。それはきっと、いままでのJには邪魔でこそあれ、必要でなどあるはずもなかったから。
 いずれにせよ、土屋の行き着く感情に変化はない。
 人形のような子供。人形であることを望まれ、いつしかそれを己のありうべき姿として心に刷り込んでしまったのだろう子供。ごくふつうの子供らしさを垣間見せたあのいくつかの一瞬を、幻想だったのではないかと疑いたくなるほどに、人形であることを望んでいる子供。
 そんな子供の姿をひたすらに悲しいと思い、そんな子供の心が、哀れで仕方なかった。
fin.
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 差し伸べた腕を絡めとり、踏み出した足を絡めとる。
 必死に繰り返される呼吸を奪い、無情にも追い詰める。
 互いを思うのに、互いを傷つけることしかできない自身へのそれは自傷にも似た虚脱感。


虚貝 --- むなしいことのたとえ。うつせがい。

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