■ a broken chord
軽く頭を振った拍子にふらりとよろめいた体を咄嗟に支えることができたのは、本当に運がよかった。他人に触れられることにどうやら不慣れらしい子供は、硬く冷たい無機質な触覚にはなんの感慨もみせないくせに、やわらかなぬくもりを持った、たとえば体温だとか日の光だとか、そういうものには体を強張らせて、怯えの表情をみせる。
「Jくん? どうしたんだい?」
椅子から崩れ落ちそうになった体は、わずかにうごめいて、そして弛緩してしまった。途端にぐっと増した腕にかかる負荷に眉を寄せながら、そっと抱きなおして顔を覗き込めば、瞼を伏せて、どうやら眠ってしまっているようだった。
悲しい顔も困った顔もしてもらいたくないから、と、気づけば極力物理的な接触を避けてきていたから、子供に触れるのは実は相当に久しぶりのこと。そしてそれゆえに、いままで気づくべきだったのに気づけず放置してきたことがあることに、触れてみてはじめて気づかされる。
「Jくん?」
「ああ、やっぱり限界でしたか」
返事は期待できないだろうと知りつつも、不安定な感触を伝える細くて軽い体に、土屋は思わず呼びかける。そこに返ってきたのは、それまでJと同じ部屋でずっと作業をしていた所員の、どこか悟ったような声だった。
どうしたものかと、困りきった表情を隠しもせずに振り向けば、声をかけてきた所員はとことこと近寄ってきて、土屋の腕の中で眠っているJの額を軽く探る。
「うん。貧血ですね」
「え? そうなのかい?」
慌てて同じように額を探っても、自分よりわずかに低い体温が伝わってくるだけで、いったいなにがどう悪いのかも良くわからない。ただ、もともと肉付きの薄かった肩に、布越しにもそれとわかる骨ばった感触を得て、土屋は眉を寄せる。
「顔色も良くないですし、体温も落ちちゃってますし。とりあえず、静かに寝かせておいてあげたほうがいいかと」
「ああ、うん」
てきぱきと指示を与えられて、土屋はそっと腕を回しなおし、子供の体を抱きかかえる。それからしばらく悩み、見守っている所員へと振り向いた。
「すまないんだが、もしいま時間があるなら、少し付き合ってくれないかな?」
いかんせん、土屋は己が子供の扱いに不慣れであることを知っている。医務室に連れていって、ベッドに寝かしつけて、そしてその後どうすればいいのか。わからないという答を得ることしかできないのなら、わかっている人間に助言を乞うべきである。
困りきって縋りつく表情をみせた土屋に、所員は穏やかに首肯してみせた。
毛布を取り出して、微動だにせず眠る子供にそっとかけてやっている土屋の背後から、途中で別れた所員がやってきて、額から目元を覆うように、絞ったタオルをおいてやる。
「足先、少し上げておいたほうがいいですよ」
その方が頭に血が巡りやすくなるから、とのアドバイスを受け、土屋は慌てて、戸棚からもうひとつ枕を持ってくる。それを足元に入れてやり、ようやく一息。
「ありがとう。助かったよ」
「いえ。私こそ、今日はずっと側にいたのに、気づいてあげられなくて申し訳ありませんでした」
「いやいや。私ひとりだったら、どうすればいいのかわからなかっただろうからね」
ベッドサイドでぺこぺこと頭を下げあい、二人は図らずも同時にベッドの主と化したJを見やって、大きく息を吐き出した。
「原因は、なんだろう?」
ぼんやりと呟く土屋は、あげはじめれば切りのない思い当たる節に、気の遠くなる心境だ。一般的な子供がどういう生活をしているのかはあまり知らないが、Jの生活スタイルが一般から逸脱していることはよくわかる。
睡眠時間が足りないのだろうか。少食なのは、元からではなくて遠慮の賜物なのだろうか。テキパキこなしてくれるからつい頼んでしまうけど、仕事を頼みすぎて疲れさせているのだろうか。
もっと話を聞いて、もっといろいろ察しがよくなってあげられれば、気を失って倒れるよりも先に、気づいて、休ませてあげることができただろうに。
結局行き着く先は己の不甲斐なさへの自責であり、悲しくなって溜め息をこぼすことしかできない。こうしていざ倒れられても、ひとりではどうしていいのかわかりもしない自分では、頼り甲斐などないだろう。
「いろいろ溜め込んでいそうですからね」
断定するのは難しいと応じた所員は、沈みきっている土屋の横顔をちらりと流し見て、小さく微笑む。
「とりあえず、目を覚ますまで、ついていてあげたらどうですか?」
「いや、だが、それでは仕事の方が……」
そうしてあげたいのは山々だが、本業をおろそかにすることはできないと、土屋は言いよどむ。それに、目を覚ましたときに自分が傍にいて、この子がどんな反応をするのか。想像もつかないその瞬間には、遭遇したいようなしたくないような、複雑な思いだ。
口ではぶつぶつと言い訳を呟きながらも、土屋の視線は底知れぬ気遣いに満ち、眠る子供へと注いでいる。
「どうせ、博士がいなければ私が指揮を執る分野ですし、私も事情をこの目で見てわかっていますし。いいじゃないですか、今日ぐらい」
隠しきれない慈愛を、そんな無機質な理由で押し込めてしまっては、Jとの距離が縮まるには、まだまだ時間がかかるだろう。いたずらっぽく微笑んで所員が促せば、土屋は困ったような笑みの中に安堵を見せ、「そうかい?」と躊躇いがちに頷く。
「起きたときに博士がいてくれたら、きっと、彼は嬉しいと思いますよ」
「そうかな」
「表面上はどうあれ、絶対にそうですよ」
悲しげな笑みを刻みながらの弱気な返答に、所員は力強く応じる。
Jがやってくれた雑務に触れるたびに嬉そうに笑う土屋と、それを見ては表情をほんの少しだけ緩め、どれほど面倒な仕事でも、穏やかな表情でこなしているJと。そこには紛れもなく、互いに向かってまっすぐに進む思いのベクトルがあるのに、互いに気づいていないのはもちろん、己の表情やら仕草にさえ自覚がないらしいということに、一体いつ気づくのか。
喜ばしい状況とはいいがたいが、互いに自覚を得るきっかけになれば、と、所員は思う。決して快いとはいえなかった感情からスタートして、じっと見守り続けるうちに子供に対して沸きあがっていたのは、やわらかな情愛だ。
不器用な子供が、土屋との接触を避けるようにしながら、それでも実はこっそり視線で土屋の動きを追っているのを、所員は知っている。
甘えることのできない、臆病な子供。自覚のないらしいその行動に気づいたとき、驚いたように目を見開き、責めるように眉をしかめ、それでもやめることができずにずっと、同じ行動を繰り返していることを知っている。
戸惑うのでもなく躊躇うのでもなく、踏み込めばいい。
欲することに、与えることに、与えられることに。
そうすれば、二人を隔てる壁はきっと崩れて、いい親子になれると思うから。
ベッドサイドに椅子を運び、そこに土屋を座らせて、所員はふと思い出してアドバイスを送る。
「顔色が良くなって起きられたら、なにか暖かくて甘いものでも飲ませてあげるといいですよ」
「うん、そうするよ。なにかあったら、こっちに連絡をくれるかい?」
「わかりました」
目を覚ましても覚まさなくても、少なくとも終業時刻には一旦顔を出すよ、と付け加えて姿勢を整えると、土屋は素直に居座りを決め込む。
「ありがとう」
「お礼はいいですから、彼を見ていてあげてください」
立ち去りかけた背中を追いかけるように、土屋の静かな声が響いた。振り向き、自分がこれを言ってもいいのかとしばし悩みながらも、真摯な願いを乗せて、所員は告げる。
「私たちも出来る限り協力しますから。だから、早くその子に、無条件の安寧を与えてあげてください」
「うん。そうだね」
驚いたような表情でその言葉に耳を傾けていた土屋は、どこか情けないような、頼りない色を呈した表情で、それでも真剣に頷き返してくれた。
fin.
隣にいるのに、同時にかき鳴らせば耳障りな音にしかならない。
だからいまは、順番に鳴らす。交代交代に響かせる。
近すぎてもいけない。遠すぎてもいけない。二人の距離は、まだ決まらない。
a broken chord --- 分散和音。
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