■ 虹色コンフォメーション
 いつもよりハイペースにグラスの中身をあおってはため息を吐き出している土屋の姿に、所員たちは苦笑を交し合う。
 今日は、そもそも大神の意外な手出しによってずっとのびのびになってしまっていた、新マシン作成プロジェクトの慰労会という名目の飲み会だった。飲み会の席は無礼講、が不文律の土屋研究所において、これほど楽しみな一時はない。なのに、全体的に浮き足立った居酒屋の空気とは対照的に、土屋は暗雲を背負っている。
 どんなときでも弱気な表情を見せない土屋を知っていればこそ、所員たちはその抱える悩みが重症であることを知る。
 見かねて声をかけた所員は、一種の地雷を踏んだのだろう。
 気づけば、臨時の子育て相談会の開催と相成っていた。



 土屋の行動がどこか突飛なのは、別に昨日今日にはじまったことではない。その突飛さゆえに、独創的で斬新なマシンや技術が生まれるのだし、そういった点を、所員たちは好んでこそいても疎ましくなど思ったことはない。だが、今回の突飛な行動には、さすがに少々考えさせられるところがあったのは事実だ。
 研究所の威信をかけたといってもいい代表マシンである、マグナムシリーズとソニックシリーズ。そのレースを土屋が見に行くこと自体は構わなかった。前作のマシンを失った形があまりに衝撃的だったから、所員たちもみな、ユーザーである星馬兄弟のことは気にかけていたのだ。
 セイバーを失ってから、新マシンにしばらく手をつけられなかったらしいという噂を聞いていたからこそ、彼らはワンツーフィニッシュを決めたという報告に沸き立ったし、やはり自分たちの掲げる理念は正しかったと、誇らしい気持ちになった。そして、そのままなんでもないことを告げるようにして付け加えられた土屋の言葉に、一様に反応を忘れて立ちすくんでいた。
「大神のところにいた子を、引き取ることにしたんだ」
 けろりと言って仕事に入ろうとした土屋を呼び止める声は、一つや二つではなかった。あっという間に戸惑いの声で満たされた研究室の入り口に現れたのは、細身の、所員たちにしてみれば決していい印象のない少年の姿。さすがに大人の意地にかけて口を噤みはしたが、刺すような視線が向いてしまうのは避けられない。しかし、それらを一向に気にかけた風もなく、表情の抜け落ちた人形のような子供は、無駄のない所作で書類を土屋に手渡すと、促されて所員たちを振り返り、やはり無表情に、実に綺麗に一礼してみせた。
「Jくんだ。手伝ってくれるというから、データ入力とか書類整理とか、何か頼みたい用事があったらお願いしてくれればいいよ。今日はとりあえず、書斎でしばらく手伝ってもらうつもりだから」
 子供らしい表情は欠片も垣間見せず、張り詰めた空気を虚無の中に滲ませてたたずむ子供は、呆然として見守っている所員たちを一度だけ見渡すと、土屋を振り仰いで小さく「戻ります」とだけ告げると、さっさと部屋を後にしてしまった。
 その日から、土屋の悪戦苦闘と苦悩の日々が、幕を開けたのだ。


 戸惑いもためらいも、もっと言うならば、なぜセイバーを破壊した当本人を、という感情的な反感も、土屋からの簡単な説明を受け、なんとか押さえつけながらはじまったぎこちない共同作業の日々は、土屋の過度の消耗という形で、その不自然さを露呈していた。
 表情も揺らさず、声音も硬いまま。そもそも、口など滅多に開こうとしないし、開いたとしても必要最低限の返答のみ。仕事ぶりには文句のつけどころもなく、能力が高いのはすぐに知れた。ただでさえ雑多な作業がたまりがちな職場において、反感は雑務処理能力の高さに相殺される。だが、ぎこちなさは取れないし、わだかまりは抜けない。仕事以外の場面でなるべく誰とも接そうとしない子供に、所員の一人がふざけて称した「アンドロイドのようだ」との表現は、妙に言いえて、かえって土屋の顔色を悪化させるだけの結果となった。
 パタパタと、必要以上に焦った足音を響かせて廊下をさまようのは土屋で、足音はおろか気配すら殺して、影のように動くのがJだ。
 部屋の入り口から顔を覗かせては、もはや口癖のように「Jくんは?」と問いかける土屋と、入れ替わるように姿を現して、土屋が来ていたことを聞き、「そうですか」と短く応じるJと。必要があれば、他の所員たちから仕事を預かるのとまったく差異なく土屋に接するくせに、気遣われ、構われることから逃げているようにしか見えない。なにを考えているのかがさっぱり読めない子供のつれない態度に、土屋がぐるぐると思い悩みはじめるまで、そう時間はかからなかった。



「きっと、まだ緊張が取れないんですよ」
 当初の反感が相殺されてしまえば、雑務を引き受けてくれる相手には感謝が沸きあがるし、そもそも子供好きの多い所員たちにとって、Jは構いたくて仕方ない対象だ。実際、なんとかして張り詰めたままの表情や空気をほぐそうと、あの手この手で所員たちからもアプローチをかけているが、ことごとくかわされてしまう。淡い苦笑を浮かべる所員も、そうして玉砕している中の一人だ。
「わかっているつもりなんだけどね」
 硬質な無表情ではなく、年相応の、無邪気な笑顔を見たことがあるから、どうしてもそれを期待してしまう。その分、元より高い土屋のプレッシャーは、天井を知らずに上昇していく。
「あと、博士はもっと自信を持つべきだと思います」
 あまりに頑なな子供に、自信など微塵も残っていないところにそんなことを言われてしまっては、もともとそんなに酒に強くない土屋は、慣れない急速なアルコール摂取の効果も合わせて、既に机に突っ伏す勢いだ。
「ああ、落ち込ませたかったわけじゃないんです。でも、大人があまりピリピリしていると、子供はもっとピリピリしちゃいますよ?」
 少し力を抜いてはどうか、と促されて、土屋は己のこの一週間の行動を思い起こしてみる。
 不自由のないように、思うままに振舞ってもらえるように、萎縮させてしまわないように。とにかく、Jにとって少しでも過ごしやすい環境を整えようと、できる限り頑張ってきた自覚はある。
「……私は、そんなにピリピリしているかい?」
「少なくとも、彼に接するのに、過剰に緊張しているようには見えます」
 萎縮させる気がないのだから、肩の力を抜いてもらえるように、なるべく鷹揚な態度を取り繕っていたつもりだが、どうやら無駄だったらしい。きっぱりと言い切られてしまい、土屋はただうなだれることしかできなかった。


 すっかり泡の消えてしまったビールを舐めて、土屋はゆっくりと口を開く。
「私はね、引き取ってから、あの子の表情が動いたのを、戸惑いと自責以外、見たことがないんだ」
 表情が削ぎ落とされているとき以外はいつだって、苦しそうな表情しか見たことがない。追い詰めて、追い詰められて。悲しそうで苦しそうな表情を、ほんのわずかに。それだけが、子供の示す反応だ。
「引き取ったことは後悔していない。私は、あのときみせてくれた笑顔を、いつでも自由に浮かべてもらいたいだけなんだ」
 なのに、どうすればいいのかわからないし、良かれと思っての自分の行動が、かえってあの子を追い詰めているのかもしれないと思うと、もう、どうしようもない。
 切実な願いと、どうにもならない現実への焦燥と。底なし沼にはまりかけた土屋を繋ぎとめるのはそれでも、子供が一度だけみせてくれた、あの笑顔なのだ。
「だったらやっぱり、もっと自信をもって、のんびりどっしり構えていてあげればいいんだと思います」
「愚痴ぐらい、いつでも聞きますよ」
 穏やかに応じた所員の背後から、元気な声と共に人影がやってきた。そしてそのまま、別のテーブルで飲んでいた若手の所員が、グラスを片手に土屋の隣に陣取る。
「僕だって、あの子の笑った顔、見たいですから」
 博士だけ見たことがあるなんてずるいですよ、と陽気に笑う彼の瞳は、しかし、静かで真剣な色を呈している。
「あー、おい! 抜け駆けはなしだぞ!」
「我々も、あの子に笑ってもらいたいっていうのは同じですよ」
 相談会の終了を感じ取ったのか、わらわらとやってきた所員たちは、土屋の周りに群れながら口々に語り合う。玄関の花瓶の水を実は取り替えていてくれたとか、手伝いを頼む合間に、資料室の棚の整理をしてくれているとか、仕事に対して礼を言ったら、戸惑うだけでなくて会釈を返してくれるようになったとか。それは、土屋が知らなかった子供の側面だ。



 あの子も頑張っているし、それを見守る姿勢も整っている。
 鬱積していた思いを言葉にして吐き出せたところへの、思いがけないやさしい追い風だった。見えないところで頑張っている子供も、研究所の仲間たちも。すべてが嬉しくて、土屋は沈みきっていた表情が和らいでいくのを自覚する。
「もっと、のんびり頑張った方がいいのか」
「そうですよ」
 いつの間にか、自分だけの知っているJの隠れた行動の自慢大会に移っている所員たちに、心の底でわだかまっていたものが少しずつ融けていく。思っていたよりもずっと、あの子を取り巻く状況は良いようだ。
 独り言になるはずだった言葉には、やさしく応じる声と、それに同調する合唱が返ってくる。
 うん、と頷いて笑顔を返すと、土屋はグラスに残っていたビールを、軽やかに飲み干した。
fin.
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 さまざまな色味で二人を取り巻き、彼らはやさしく手を差し伸べ続ける。
 どんな色でもかまわないのだと、その身をもって彼らは教えてくれる。

 コンフォメーション --- 構造・適合・配列

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