■ 万華鏡
表彰台を見上げて満足そうに微笑む横顔に、後悔は浮かんでいなかった。なにかが吹っ切れたような視線で星馬兄弟を見つめている細い背中は、凛とした誇らしさに彩られている。
どうしたものかとしばらく考えていた土屋は、無言でひとつ頷くと、ゆっくり足を進めていった。
「君の走り、見せてもらったよ」
気配には気づいていたのか、少年は驚いた様子もなくちらりと視線を流し、土屋が隣に並び立つのを黙って観察している。
「君も、ミニ四駆が大好きなんだね」
小首を傾げるようにして言葉を重ねれば、少年は土屋の方へと顔を上向け、わずかに目を見開いてからそっと顎を引いた。先ほどまでの穏やかな笑みは掻き消え、代わりに浮かんだ惑いと疑念とで、その表情は複雑に入り乱れている。
「どうだい、Jくん。私のところへ来ないかい?」
にっこりと笑いながら、少年の隣に並ぶまで、何度も胸の中で反芻した言葉を、土屋は力強く紡ぎ出した。案の定、少年は大きく目を見開き、自分がいま聞いた言葉の意味を理解しあぐねている様子をみせる。薄く開かれた唇から、音は零れ落ちない。ただ、言葉の真意を雄弁に問う瞳をまっすぐに見つめ返し、土屋は悠然と頷いてやる。
「……はい」
その首肯を目にして、Jは瞳を眇め、小さく承諾の意を示した。わずかに間はあったものの、返答の内容に迷いはないのだろう。すっきりとした、曇りのない視線だった。
にっこりと、これ以上はないだろう笑みを浮かべて手を差し伸べ、土屋はJの細い肩を叩く。
「よろしくね」
惑いの声か驚愕か、あるいは、運がよければ同意の声が返るだろうと思ってのその行動には、鋭く息を吸い込む音と、低い足音とが重なって戻ってきた。
二人の目の前で止まった影の持ち主は、白衣を纏った一人の男。その姿にはっと顔を上げたのは、土屋とJと、同時だった。
じっと見つめる視線を冷めた表情で受け止め、大神は悠然と口を開く。
「私に従う気はもうないと、そういうことだな?」
威圧感に満ちているその言葉に、土屋は思わず懸念の表情を浮かべる。この子供を見る限り、自らの意思でなにかを決定することには慣れてなどいないだろう。こんなところでこうも高飛車に出られては、せっかくの決断を、悔悟に染め、翻してしまいかねない気がしたのだ。
しかし、Jの反応は、土屋の予想とはまるで違うところにあった。ひとつ息を吸い込んでまっすぐに大神を見上げると、しっかりと口を開いたのだ。
「いままでのようなレースは、もうできません」
怯えを含ませながらも毅然と告げられた言葉に、土屋は息を呑み、大神は双眸を眇める。
「ならば勝手にしろ。お前にはもう、なんの価値もない」
最も忠実だったろう子飼いのレーサーに、形式的にとはいえ裏切られたくせに、大神の声も表情も、不思議に凪いでいた。それは、切り捨てや達観というより、Jの反応を予想していたかのように。
なんだかんだと主張に差異はあれども、土屋は大神の言葉に二言がないことを知っている。間接的にせよ、Jを引き取ることへの承認をもらえたことにほっと表情を緩めるその先で、大神は踵を返し、短く声を放り投げてきた。
「目障りな荷物は今日中になんとかしろ」
「大神、書類がいろいろと入用になると思うんだ。それに関して――」
「取り揃えて送る」
その段になってはじめて、大神からJを引き取るには、諸事務手続きがいるだろうことを思い立ち、土屋も慌てて口を開く。しかし、最後まで土屋が言い終えるのを待たずに、大神はひと言で断じてさっさと歩き出してしまった。
あくまで堂々と立ち去る背中に、土屋は相変わらずだ、との苦笑を禁じえないが、同じく見送るJはそうではなかったらしい。
「博士!」
まるで未練なく進む背中に向かって慌てた声で呼びかけられても、大神は歩調を緩めない。徐々に遠くなる後ろ姿に、それでもJは、折り目正しく頭を下げた。
「ありがとうございました」
決して大きくはない透明な声に、大神の肩が一瞬だけぴくりと揺れる。だが、振り返ることはなかった。鼻を鳴らしたのが微かに聞こえて、土屋はそこではじめて、小さな罪悪感に苛まれる。
泣き顔と笑顔と、背中合わせの表情を浮かべてゴールラインを駆け抜けた子供に手を差し伸べる大人がいないだろうことを、土屋はどうしても見過ごせなかった。望むままにマシンを走らせることで切り捨てられるのは、おかしなことだ。それが大神のやり方であるのなら、その対極に位置する自分は、切り捨てられた子供を受け入れるべきだろう。大神がいまの立ち位置へと辿り着いた経緯に、土屋は少なからぬ関与をもっている。
子供に選択と決断を促したのは間違いなく烈と豪の存在であり、彼らの出会いと対峙の背景には、土屋と大神の存在がある。ならば、両者の対立があからさまになった瞬間に、少なからず土屋は、Jの処遇と行く末に責任をもっていたのだろう。
運命論的な考え方を好むほどのロマンチストではなかったが、土屋はその理由付けに満足している。
彼との出会いを偶然に終わらせる気はなかった。マシンは、険しい顔つきとぴりぴりとした緊張感をもって走らせる対象ではない。子供たちの可能性を引き出し、勝敗のどちらにも笑顔を与えてくれるように。その願いを、あそこでJを見捨ててしまったら、自ら裏切る結果になってしまった。たとえ誰かから、それはお前のエゴだろうと非難されても構わない。いずれにせよ、きっかけさえあれば、才能の片鱗をそこかしこにみせる子供に、新しい世界と考え方を知るきっかけを差し出す気でいた。だから、Jが自分の誘いに是と応えてくれたことが、純粋に嬉しかった。
だが、Jが土屋を選ぶということは、大神を切り捨てるということ。二人の間にあった時間を、土屋は知らない。垣間見ることを許された限りでは、大人と子供の関係として、決して好ましい形ではなかったように見えたが、それだけではなかったのかもしれない。少なくとも大神は、昔から本当に不器用な人間だったから。
「相変わらずだなあ」
あんな言い方をしないで、自分のところにいてほしかったのなら、そう言えばいいのに。そう振舞えばよかったのに。
思っていることを表現するのが極度に苦手だった旧友に、土屋は切ない笑みを禁じえない。大神がどんな思いでJを見ていたのか。そんなこと、きっとJにもよくわかっていないのだろう。真相は、大神の胸の内に潜められたままだ。
低く呟いた言葉がJの耳に入っていたかどうかまでは、土屋に知るよしもない。ただ、大神が人込みの向こうに抜けるまでじっと見送っていたJが振り返るのを待ち、穏やかに微笑みかけた。
「じゃあ、我々も行こうか」
まずは、大神研究所に経由すべきだろう。そこでJの荷物を引き取って、それから、土屋研究所に帰ればいい。一番効率のいいルートを頭の中で組み立てていた土屋は、小さく呼び止める硬い声に、首を巡らせる。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
視線の先で、Jが生真面目な、思いつめたような表情で土屋を見つめ、そして頭を下げた。
「私こそ、よろしく頼むよ」
Jが顔を上げるのを確認して、土屋もまたきちんと礼を返す。くしゃりと泣きそうな、ぎこちない笑みを浮かべたJは、もう一度だけ小さく大神の消えた方を振り返り、土屋の歩く方へ向かって足を踏み出した。
fin.
ばらばらになりたかったわけではない。そばで共に輝いて、それで綺麗な模様を織り成したかった。
彼を捨てるわけでもなく、彼に捨てられるわけでもなく。
ただ、互いがより輝ける場所を探して、逃れられなかった分岐点。
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