■ 掃除
人の気配のないコースルームで、Jは自分の破壊したマシンの残骸を辿っていた。
解析のためにと、マシンを大神に預けてしまえば、あとはもうやるべきことも残っていない。その足で与えられた部屋に戻ろうとしたところに、一人の研究員から余計な声がかかったのだ。いわく、破壊されたマシンを個々に解析し、どのような力が加わったのかも解析したい、と。
コースの掃除にもなるし、解析もできるし、本人から細かく話を聞けるから、一緒に降りてもいいだろうかと。そんな発案にそれもまた一理あると大神が認めてしまえば、Jに反論の余地はない。おかげで再びコースルームへと戻され、せっかく叩き壊したマシンを一台ごとに拾い集めて歩くという、くだらない仕事が増えてしまったのだ。
そもそもJは、言い出した研究員が苦手だった。所内に得意な人間がいるかと言われれば、即座にいないと答えられる。しかし、中でも群を抜いて苦手な相手というのもまた皆無なのだ。そんな稀有な存在の一人が、一緒に下りてきたこの研究員である。
マシンの残骸に行き当たるたびに、パーツの散らばり具合とコースへの衝撃の痕跡を観察し、どのような攻撃手段を用いたのかをJにいちいち質問して歩く。事実を問い質される分には淡々と答えていられるのだが、なぜその選択をしたのかといちいち問われても答えようがない。強いて言うなら、相手のマシンがその位置に来て、ちょうどいいと思ったからそうしたのだとしか言いようがないというのに。
「そんなに露骨に嫌そうな顔をするだなんて、珍しいな」
疲労からくるものと、それ以外のものと。小さからぬ苛立ちに心がざわざわするのをやり過ごしながら付き合っていたJは、おもむろにかけられた言葉に、相手の背後にいるのをいいことについ眉根を寄せていた。こぼれかけた溜め息は飲み込んで、胸中で盛大に吐き出す。気まぐれかつ適当に、必要以上にJの存在に踏み込んでこようとする点も、この研究員の迷惑な性癖だった。
戯言は聞き流すに限ると、黙ってJはひた歩く。Jの無反応は特定の個人に限ったことではない。研究所の所長である大神にさえろくに反応を示さないから、他の研究員もレーサーも、Jに対して反応を求めたりはしない。
大人から見れば、余計なことを言わず命じたことを淡々とこなす体のいい道具。
子供から見れば、面白みに欠け、鼻持ちならない生意気で憎らしい蹴落とすべき駒。
Jと一対一でまともに関係性を築こうとする人間は滅多にいない。それはJにとっても実に便利なことだった。余計なことに神経を割く気はない。それが何になる。それで何になる。問うても答が出ないなら、無視して素通りすればいい。そうすれば相手からの干渉は必要最低限になる。
なのにどうして、この研究員はそのことを学習しないのか。
「返事ぐらいしてくれ。独り言を言ってるみたいで、寂しいだろ」
しばらく何かを待ちわびる空気を漂わせていた背中が立ち止まり、くるりと振り返る。今度こそ零れ落ちるのをこらえ切れなくなりそうだった溜め息をなんとか押しとどめ、Jは視線を逸らす。そしてその先にちょうどいいものを見つけ、飲み込みきれなかった溜め息に言葉を載せた。
「……次、コーナーで膨らんだところに後輪へのアタック」
「叩き出す気だったのか?」
「別に」
話題のすり替えに気づかなかったのか、するりと応じた研究員に、Jはぽつぽつと言葉を返す。
さっさと終わらせて部屋に戻りたい。誰にも、何にも接さなくてかまわない閉鎖空間に、一刻も早く。
何を思ったか、Jが話を逸らしてから余計なことを言わなくなった研究心のおかげで、終わりは意外にあっけなくやってきた。最後の一台を回収し終え、Jはごく小さく、詰めていた息を吐き出す。ありがとうとか、お疲れさまとか、助かったよとか。そんな類の言葉が聞こえた気もしたが、振り返ることなくJは最寄りの出口を目指す。
いくら空調である程度の抑制がされているとはいえ、溶岩の上に設置されたコースルームには熱気がこもっている。廊下に出て、頬を撫でる冷たい風に肩の力を抜く。表情筋からも完全に力を抜き、無表情を更に空っぽにしたところで、その背中にかかる声があった。
「このままでいいのか?」
いつものごとく唐突で脈絡の読めない、中途半端にJの存在に踏み込む発言だったが、声がいつもと違った。いつもよりも切実な響きを感じ取り、ちらりとだけ視線を向ける。
「このまま、いろんなものを捨てて、中身を掃き出して、それで何が残る? 僕には君がどんどん自滅に――」
「かまわない」
これ以上のくだらない発言にはもうつきあっていられないと、Jは相手の言葉を遮った。中途半端に踏み込んで、中途半端にかき乱して、そしていったい何をしたいというのだ。何をしたくてそんなことを言うのか。何が目的なのか。単なる気まぐれなのか、何らかの意思があるのか。
推し量ることも勘繰ることも、すべてがくだらなくて、Jは吐き捨てる。
ではどうしろというのか。このままでないなら、どうしろと。求められた姿になれないなら捨てられるだけ。求められたものを得られないなら捨てられるだけ。求められたものに応じられつつあるいまを捨てて、いったい何をどうしろというのか。
まだ何か言いたげだった研究員を冷ややかに一瞥し、Jはもう一度繰り返す。
「このままで、かまわない」
抑揚のない声に、痛みを堪えるように眉間に皺を寄せて、研究員はJの肩を掴む。
「自分を殺しすぎると、いつか壁にぶつかったときに壊れるぞ。人形であることは、自殺行為なんだ!」
いつになく真剣な震える声にこめられたものが何なのか。それを察そうという意思などJにはなかった。ただ、向けられるものが自分をかき乱すものであることを悟り、頑なに警戒心を向けること以外に選択肢などない。
見つめてくる視線に敵意をこめた視線を返し、Jは痛みを訴える肩を無理にねじった。そして拘束から抜け出すと、背を向け、振り返りもせずに真っ白な廊下を突き進む。呼ぶ声は聞こえなかったし、呼ばれても立ち止まる気などなかった。
研究員の入れ替わりの激しい大神研究所において、誰が辞めて誰が入って、という話はあまりにもありふれていた。そのありふれた話の中に拾うことはなかったが、それから、Jがその研究員と出会って言葉を交わすことはなかった。
fin.
きらいきらいきらい。
あなたなんかきらいだ。みんなきらいだ。ぜんぶきらいだ。
すべてを粉々に砕いて、そしてあの溶岩へと叩き落してしまえたら、きっとせいせいするのに。
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