■ とるにたらない
几帳面だけれどもいい加減、と評したのは誰だったか。湿り気を残す髪にはまるで頓着せず、適当に乾かしただけでバスタオルを肩に羽織ってリビングに戻ったJは、珍しく土屋の姿がそこにないことに眉根を寄せた。残業があるなら、それはそれできちんと一声かけてくれるのが常だ。少なくとも来客を告げるチャイムは聞こえなかったし、電話も鳴っていなかったように思える。いぶかしく思いながら廊下に引き返し、土屋の私室へと足を向け、そしてJはためらった。
電気がついているし、気配はあるし、がさがさと音はするし、そこに土屋がいるのは明白だ。でも、たった一枚きりの薄い扉を開けるのは、いつだってJに必要以上の勇気を要求する。
すっと大きく息を吸い込み、思わず暗い方向へと傾きかけた思考を叩き戻す。こんなだからいつまでたっても彼を心配させどおしなのだ。自虐的で悲観的な思考回路は一朝一夕で修正のきくものではないが、せめて、土屋の前ではその修正がきいた姿を演じていたいと思う。それは、Jからの精一杯の誠意であり、なけなしの意地だ。
「博士?」
遠慮がちなノックにあわせ、そっと声をかける。もしも仕事をしているのなら、邪魔にならないように。せめては、就寝前の挨拶ぐらいはしておきたい。
「ああ、っと、ちょっと待ってくれ」
「いえ、あの、用事があるわけでは――」
「はい、お待たせ」
何かにかまけていることがひしひしと伝わってくる音節の区切り方に、Jは小首を傾げて辞去の言葉を紡ぎかける。しかし、それが最後まで聞き入れられることはなく、もともと薄く開いていたドアがすぐに大きく開け放たれた。
「まだ髪が濡れているじゃないか」
なんと言葉を返したものか。深く悩みはじめたJに向けられたのは、肩のタオルを引き上げる優しい両手だった。
しばし迷ったようだったが、土屋はJを部屋に招きいれ、ベッドに座るよう促した。
「もっとちゃんと乾かさないと、風邪をひくよ」
「大丈夫ですよ」
おとなしく座り込んだJの頭にかぶせたタオルで、土屋はわしわしとやわらかい金糸をかき混ぜる。強引とも乱暴とも取れる手つきは、それでもとてもやさしくて、Jはふらふらと上体を揺られながらいつもの反論をのろのろ口にする。
「そういう油断が風邪のもとなんだよ。まったく、変なところでのんきなんだから」
手のかかる子だ、と。笑い混じりの声はどこまでも深く、タオルを肩に戻してぽんと頭頂部を叩いた土屋は、ふわりと目尻を和ませた。
「さて、と。ちょうどいいところに来てくれたね」
「何かの途中だったんじゃないんですか?」
もしかして邪魔をしてしまったのではないかと、妙に気の回る子供の視線が部屋をぐるりと見渡す。しかし、広がっていたのはJの想像していた『何か』とは大きくかけ離れた光景で。
「探し物でもしていたんですか?」
「いや、ちょっと違うよ」
必死に頭を振り絞って当てはめた単語は、あっさりと部屋の主に否定されてしまった。
ちょうどよかったと、もう一度繰り返した土屋は、備え付けのクロゼットの扉にかけてあったハンガーを両手に、Jへと向き直る。
「どっちがいいかな?」
「え?」
「だから、どっちがいいと思う? 明日、着ていくのに」
言われた意味がわからずに思い切り首をかしげたJは、繰り返され、付け足された単語にようやくその布地の用途を思いついた。明日、Jの通う学校に授業参観に赴くに当たり、着ていくスーツを選べと、そういうことなのだろう。なんだか無性に照れくさくなってしまい、Jはあちらこちらへ視線をさまよわせる。
「えっと、ボクはそういうの、よくわかりませんし、どっちでもお似合いだと思いますし」
「いや、うん。ある程度は絞り込んだんだけど、どうしてもこの二着で悩んでいてね。やっぱり、第三者の目線が必要かと思って」
「そんなに大げさに考えなくても、大丈夫ですよ?」
きっと、と、自信なさげに語尾に追加したのは、J自身にとって授業参観という行事が経験のない対象だからだ。わくわくする気持ちも、どきどきする気持ちも、まして服装に気を遣おうという保護者の発想もよくわからない。ただ、少し緊張して照れくさい気がするというだけで。
「大げさなつもりもないんだが、君の友達に見られるんだよ。あまり気の抜けた、だらしない格好はできないよ」
それとも、これでは大げさだろうかと、土屋は逆に深い溝にはまり込んでしまったらしい。両手に掲げたスーツを見比べ、うんうん唸りだしてしまった様子に、かえってJは肩の力が抜けるのを感じる。
しばらくじっと土屋とその両手のスーツを見比べ、Jは小さく頷いた。
「右手のやつがいいです」
「ん? こっちかい?」
「はい」
すぐさま振り返り、嬉しそうに指示されたスーツを持ち上げ、土屋は笑った。
「うん、そうか。やっぱりこの季節は、明るい色の方がいいのかな」
じゃあこっちだね。悩んでいたという厳選されたライバルだったはずなのに、左手のハンガーは既にクロゼットの中へと消えていた。嬉しそうに、楽しそうに、土屋はハンガーをクロゼットの扉に引っかけ、また別のものを漁りだす。
「ネクタイは、これと決めているんだよ。どうだろう、色味は大丈夫かな?」
いそいそと取り出されたのは、見覚えのありすぎる濃紺のそれ。いったん目を大きく見開きながらも、Jはへにゃりと表情を緩める。
「大丈夫だと思いますよ」
「じゃあ、これでコーディネートは決定だな」
てきぱきと必要のなくなった分を片付けながら、土屋はJを振り返った。
「今日はもう寝るつもりかい?」
「まだ少し。宿題もありますし、明日のボクの時間割、博士に教えておいた方がいいかと思いまして」
「そうか、そういえば知らなかったね」
情けないとばかりに額に手をやり、土屋は天井を仰いでから苦笑の混じる視線を落とす。
「何か飲みますか?」
入れてリビングで待っていようと、腰を浮かせながらJは上目遣いに土屋を見やった。
「うん、じゃあ、コーヒーをお願いできるかな?」
「はい」
するりと扉に向かう細い背中に、片付けたらすぐに行くからと告げれば、首から上だけが振り返ってふんわりと笑みを返してくれた。
fin.
取るに足らない悩み事。
それは明日着ていく服のことだったり、枝毛の存在だったり。
彼との距離を測りかねる、取るに足らない杞憂だったり。
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