■ かくれんぼ
(……どうしよう)
 帰宅の挨拶は、いつも通りにこなせたはずだ。それから簡単に研究所内の仕事の手伝いをして、いつものごとくやってきた星馬兄弟と遊んで、片づけをして。
 夕食は土屋が作る日だったから、やっぱり簡単に皮むきなどの手伝いをして、他愛もない話をしながら一緒に食べた。料理のレパートリー、および経験値が土屋に比べて圧倒的に低いJは、もっぱら片づけを担当することが多く、今日も例に漏れず、こうして食器を洗っては拭いているところである。
(どうしよう、どうするのがいいんだろう)
 もっとも、思考回路はまったく別の方向に割かれている。慣れた手つきで洗剤を洗い流し、大きさ順になるように食器を積み重ねるその手はよどみなく動く。ただ、視線は手元を見ているようでまるで違うところを見ているのだが。
(素直に渡すべき、なんだろうけど)
 ざあざあとにぎやかにシンクを打つ水音には、何度となくこぼされるため息が付加される。Jの思考を奪い続けるその正体は、鞄に入れっぱなしになっているたった一枚の紙切れだ。


 洗い物を終えると、Jはそそくさと自室に引き上げた。土屋は、最近本職である研究以外にも何かと雑務が舞い込んで忙しいらしく、食事を終えるとすぐに研究棟へと戻っている。
 誰もいないリビングに対して気を使う必要はなかったが、なんとなく、後ろ手に静かに扉を閉める。一つ一つの挙動が過ぎるほどに丁寧になるのは、後ろめたい気分に支配されている証拠だ。思いがけないところで改めて罪悪感にさいなまされることとなり、Jのため息は止まらない。
 椅子の背にかけてあった鞄を手に、ベッドにどさりと腰を下ろす。見間違えもその内容に関する記憶違いもない。が、無駄と知りつつ何度も見返しては確認してしまうのは、本当に困りきっているから。
 几帳面な性格を反映して、きちんと整頓された鞄の中身。クリアファイルから取り出された折り目ひとつないプリントには、『授業参観のお知らせ』と印字してあった。


 ぐるぐると悩んでみても現状は打破されない。ならば少し気分を変えようと机に向かってみても、五分とおかず手はプリントを探し、視線はもはやそらんじてしまった文面を追う。数式を睨んでみても、文章を読んでみても、結局、思考回路は同じ場所へと戻ってしまうのだ。
「どうしよう」
 もはや無駄な抵抗は諦め、Jはシャーペンを握った手はそのまま、机にだらりと突っ伏した。電球に照らされた後頭部がじんわりとあたたかく、それが心地良くて、なんとなく瞼を下ろしてみる。
 土屋に引き取られるに際し、生活空間を共有するがゆえの取り決めはごくわずかだった。それはきちんと守れているし、あえて言葉にされなかった不文律の部分も、うまく汲み取ってお互いに良好な関係を築けていると、Jは思っている。日常生活においては、問題は何もないと言っても過言ではないのだ。
 ただし、土屋からの追加の注文がなかったわけではない。それは、学校に通うことになった際に取り交わした新しい約束事だった。
 必要最低限に限らず、欲しいと思ったものは遠慮せずに言うこと。
 学校からの連絡事項は、余すことなく土屋に伝えること。
 研究所で手伝ってくれるのは嬉しいが、学校の友人たちとの交友を優先すること。
 どこか一風変わった約束ではあったが、それは短い時間ながらも土屋がJを見ていてあえて言うべきだと感じたことだったのだろう。特に無理な点もないと判断し、そのときJは、二つ返事で承諾を返したはずだ。
 が、いまはまさにその約束によって、混迷の真っ只中に叩き落されている。
 土屋のことは悲しませたくない。だから、約束は破りたくない。でも、約束を守ってこのプリントを渡して土屋の取るだろう反応と行動を思えば、いまのこの非常に忙しい時期に、こんなわがままめいた情報はもたらしたくない。
 大きく深呼吸をして、Jはむくりと体を起こす。睨みつけても消えてはくれないプリントに、追加してため息をひとつ。
 一番の問題は、事情の把握と未来の予測が正確に適っているくせに、これを渡して、出来ることならその予測通りにことが運んで欲しいと願う、自分自身の心なのだ。



 ひとつ頭を振って靄のようにわだかまる思考を振り払い、Jはプリントを再び鞄に戻そうと、椅子の背もたれ側に体を捻る。と、その中途半端な姿勢からまさに鞄に手が届こうというところに、軽やかなノックの音が響いた。
「――っ!!」
 普段ならば落ち着いて対処できるその音と気配に、まるで気づいていなかったJは思わず身を固め、勢い余って床に崩れ落ちる。椅子を巻き込んでの転倒にはかなり派手な効果音が付随し、慌てた様子でドアが開かれるのを、天地がひっくり返った状態でJは静かに見やる。
「Jくんっ!?」
 名前を呼び、心配そうな空気をいっぱいに撒き散らしながら姿を見せた土屋は、椅子と床とに挟まれているJを見て、驚愕と安堵と、それから心配のない交ぜになった表情で、へにゃりと笑ってみせた。
「大丈夫かい?」
 すごい格好だね、と苦笑交じりに感想を述べ、起き上がるのに手を貸すと、土屋は屈みこんでJの肩やら腕やらをぽんぽんとはたき、ほこりを払う。黙ってなされるがままになっているJは、情けなさと困惑とで、反応がろくに返せない。
 みっともないところを目撃されたのは、少しだけ決まりが悪いが別に構わない。そうではなくて、いまだ右手に握ったままのプリントが、このままでは見つかってしまうことを危惧していたのだ。


 ほこりを払い、怪我がないことを確認していた土屋は、ようやく満足したのかJを見上げてにこりと微笑んだ。
「大丈夫かい?」
「はい。ありがとうございました」
「いや、いいんだけどね。でも、気をつけてくれよ。怪我でもされたら、心配でたまらない」
「はい」
 素直に応じたJの神妙な表情に、やさしく「そんなに気に病むことはないよ」と笑いかけ、土屋はおもむろに左手を引き上げた。その先には、軽く握られたJの右腕がある。
「今日、君のことをずっと悩ませていたのは、もしかしてこれかな?」
 目で示されて我に返り、Jは慌てて腕を振り払い、背中に右手を隠していた。過剰な反応だったかと思い返し、続けざまに開いた唇からこぼれるのは、自分でも呆れるほどの陳腐な言い訳。
「あ、いえっ! これは、その、課題のプリントですから、別にそんなことは」
 語尾がだんだん小さくなり、視線がきょろきょろと床をさまよう。
「そんなんじゃあ、それが原因だって言っているようなものだよ」
 苦笑に乗せた声はあくまでやわらかいものの、目の奥の表情はどこまでも真剣で、土屋がJのことを心の底から案じている様子がひしひしと伝わってくる。じっと見つめる視線の強さに、結局Jが勝つことなどできるはずもない。


 おずおずと差し出された一枚の紙切れを受け取り、土屋はあさっての方角に向けて顔を伏せてしまっているJを見やると、ざっと中身に目を通した。表記はアルファベットだったが、別段それは土屋にとってたいした障害ではない。
「私が行っては、迷惑かな?」
「いえ! そういうわけではないんです」
 静かに問いかけられ、Jは反射的に反論していた。目を上げた先には、いつもよりも自信がなさげな、悲しげな土屋の瞳がある。
「そうじゃなくて、博士はやさしいから、きっと、ご迷惑かなって思って」
「何が迷惑なんだい?」
「だって、最近ずっとお忙しいみたいですし、お疲れですから。そんなところに、こんな余計なこと――」
「余計なこと、じゃなくて、大切なこと、だよ」
 しどろもどろながらもなんとか理由を紡ぐJの言葉を遮り、土屋は腕を伸ばしてわしゃわしゃと金糸をかきまぜた。
「私の心配をしていてくれたんだね。ありがとう」
 でもね、と、土屋はJの頭に手を置いたまま、ゆっくりと噛んで含めるように言い聞かせる。
「私は大丈夫だし、むしろこれは貴重なチャンスだからね。ぜひとも見に行きたい。どうだろう?」
「無理をなさってはいませんか?」
「無理をしてだって行きたいよ」
「博士!」
 弱気に問いかけたJには、混ぜ返す言葉といたずらっぽい笑みが返された。思わず語調を強くして呼びかければ、土屋は「冗談だよ」と笑いながら膝を伸ばす。
「大丈夫。今週末で一通り蹴りがつくからね。そのころは結構ゆとりがあるんだ」
「本当ですか?」
「本当だよ」
 嘘をついても、どうせばれるだろう。笑う土屋には気負った様子もなく、Jは告げられた言葉が真実であることを確信し、ようやく肩の力を抜く。


「すぐに渡さなくて、ごめんなさい」
 頭を下げてもぶつからないよう一歩後ろに下がり、Jは腰を折った。
「君のやさしさのおかげだということはわかっているよ。でも、あまり気にしすぎることはないからね。私こそ、変に気を遣わせてしまったようで、悪かったね」
 Jが顔を上げるのを待ち、土屋も小さく頭を下げてみせる。ゆるりと首を振って応じてから、Jは表情を緩めた。
「本当は、見に来ていただきたいけどわがままは言えないなって、それでぼんやりしていたんです。ちょっと恥ずかしいけど、とても楽しみです」
「私も、見に行く立場というのははじめてだからね。緊張するよ」
 何か思うところがあったのか、わずかに遠い目をして頷く土屋は、そのままJをリビングに誘う。
「ちょっと時間が開いちゃったけど、デザートを食べよう。もらったケーキがあったのを、忘れていたんだ」
 本当はそれを口実に部屋から連れ出し、その状態で聞きだすつもりだったのだが、順序があべこべになってしまった。もっとも、結果は満足すべきものだから、これで良かったのだろう。
 嬉しそうに笑う土屋に、もやもやした気分の吹っ切れたJもまた、すっきりと笑って頷いた。


 隠れたい。隠したい。見つけて欲しい。見つかりたくない。
 すべて気持ちはごちゃごちゃだけど、全部あなたが大好きだから。
fin.
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 どこに隠れていても、きっと察して見つけてくれる彼と、それを心のどこかで期待しながら隠れる彼と。
 気づけば気遣いの方向性はあやふやで、それでも壊れない、確かな二人のいる時間。
 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。 もういいかい、探しに行くよ。もういいよ。見ぃつけた。

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