■ マンガ
廊下を小走りに進み、ミーティングルームを駆け抜けたところで烈は思わず急停止していた。その場で大きく深呼吸をひとつして、胸元に手を置いて動悸が治まるのを待つ。それからおもむろに自分の通り過ぎた方を振り返り、そろりそろりと足音を忍ばせてミーティングルームの入り口からそっと中を覗き込んだ。
「で? ここはどうなってんだ?」
「ああ、これはヒントがちゃんとあったよ。ええっと、どこだっけ。ほら、さっきの話のやつ」
「おうっ、これこれ!」
部屋の中にいたのはJと豪であり、そのこと自体はまるで珍しくない。豪がJにじゃれついているのも日常茶飯事であるし、そんな程度では驚かない。そうではなくて、洩れ聞こえる会話とそのポジションに疑問を覚えたのだ。
「うん、ここ。ここから発展させているんだよ」
「へえ、そっか。おれ全然気がつかなかった」
二人はソファに並んで座り、何か本を手にして話し合いをしているようだった。いや、話し合いというのは正確ではない。正しくは、豪がJに何かの解説を求め、Jがそれに丁寧に応じているといったところだろう。
あの弟が、よもやまさかもしかして、勉強をしているのかと。烈は幼馴染の少女から得たあらゆる情報を思い起こす。このような光景は、めったに見られないというだけでごくたまに目にすることができる。それはいつだって、彼らの担任教師に罰ゲーム的な宿題を出されたときだ。しかし、そんな話は耳にしていない。
「じゃあ、こっから先はどうなるんだ?」
「ボクなりの推測は一応あるけど、話しちゃったらつまらなくないかな?」
「あー、言われてみりゃそうだな。じゃあいいや」
茫然自失でやり取りを眺めていた烈は、だから、会話が終わったのかぐっと大きく背をのけぞらせた豪と目が合い、思わずびくりと肩を震わせていた。
「烈兄貴? どうしたんだよそんなとこで」
「烈くん?」
あまり頭を逆さにしていても血が上るから、豪はすぐさま首を元の位置に戻し、くるりと身体ごと反転させる。合わせて発された疑問の声に、Jもまた腰を捻って入り口を向く。
「声かけてくれればよかったのに。ジュース飲む?」
「あ、うん。ありがとう」
ソファに座るようやわらかな笑顔で促され、烈はふらふらと足を踏み出した。すっと腰を上げ、備え付けのキチネットへと姿を消したJが声を投げかける。
「博士のご用事だったんだよね? なんだって?」
「今度のリーダー会議についての連絡と、練習場の予定表をもらってきたんだ」
ようやく機能を回復しはじめた思考回路が、すべらかに答えを紡ぐ。そういえば、その予定表をJに見てもらって、一緒に練習メニューを考えようと思って廊下を急いでいたのだ。あまりの衝撃に当初の目的をすっかり忘れていたが、ミーティングルームで足を止めたのは正解だった。
ぼんやりと考えを巡らせながらソファの背を回り、ちょこんと腰を下ろして一息。そこまできていったい弟は何を教えていてもらったのかと視線を机に流し、烈は思わず声を荒立てていた。
「俺のマンガ勝手に持ち出したの、やっぱりお前だったのかよ!?」
視線の先に鎮座していたのは、最近烈がはまっているマンガの単行本の山だった。
詰めより、がなりたてる兄に対して、しかし豪は動じなかった。
「えー、ちゃんと借りるぜって言っただろ?」
「借りるって、外に持ち出すなんて聞いてない! どおりでお前の部屋を探しても見当たらないわけだ」
不満そうに反論してきたそれは確かに事実なのだが、もう少し、言葉の足りる説明を願いたいと烈は切実に思う。もっとも、それは思うだけ無駄なのだろうと頭の隅で諦めを感じてしまっているのも事実だったから、口調は徐々に弱々しいものへと変わっていく。
「ごめんね、烈くん。それ、ボクが借りてたんだ」
「えっ!?」
声とともにがっくりと落とされた肩は、差し出されたコップと添えられた言葉に、一気に跳ね上がった。目を上げた先には、心底申し訳なさそうな蒼い双眸がある。
「豪くんに話を聞いて、面白そうだね、って言ったら、貸してくれたんだ。思ったより返すの遅くなっちゃったのはボクのせいだから」
豪には非がないから責めてくれるなと、困ったように寄せられた柳眉に烈が強く反論できるはずもない。
「あ、ううん。ただ、知らないうちに見当たらなくなってたからびっくりしただけで、全然かまわないよ。気にしないで」
「そう言ってもらえると助かるよ。でも、本当にごめんね」
ついでに持ってきたのだろう新しくなみなみとジュースの注がれたグラスを豪にも手渡し、Jは烈の正面に腰を下ろした。
「でも、ちょっと意外だな。Jくんって、こういうの読まないと思ってた」
「まあね。いままで縁がなかったから」
正直に驚きを示しながら烈が告げれば、Jは肩をすくめて「嫌いってわけじゃないんだよ」とはにかむ。
「どう? 面白かった?」
いま一番はまっているシリーズなんだけど、と烈が問えば、Jはジュースを飲み込みながらこくりと頷いた。
推理ものとファンタジーの相の子のような物語の構成は深く複雑で、幅広い年齢層で支持を集めている話題作でもある。マンガはマンガでも、こういうタイプならばJが読んでいても違和感は薄いかもしれないと思いながら、烈は一冊を何気なく手にする。
「面白かったけど、ちょっと疲れたかな。けっこう頭を使うよね、それを読むのって」
「言えてる。豪なんか、ろくにわかっていないっぽいし」
ぱらぱらとページをもてあそびながら悪戯っぽい視線を隣でジュースを飲んでいる弟に流せば、不満顔が振り返り、それから得意そうな笑みへと崩れる。
「なんだよ?」
「へっへーん! おれ、Jにいろいろ教えてもらったもんね!」
いまなら完璧だと無駄に偉そうに胸を張る豪に、烈はなるほどとひとり頷く。先ほどの勉強会は、Jにストーリーの解説を頼んでいたのだろう。だが、そんな程度でいい気になられたのではなんとなく癪である。ちょうどよく目に入ったページをずいと突きつけ、烈は面食らった様子の豪に意地悪く問いかける。
「じゃあ、ここのセリフがどういう意味か、説明してみろよ」
「いいぜ! えーっと……?」
早速口を開こうとして、しかし詰まってずぶずぶと思考の底なし沼にはまり込んでしまった豪に、烈はそれこそ得意げな笑みを浮かべてやれやれと大げさにため息をついてみせた。
「だあっ! 黙ってちょっと待ってろよ! いまのおれは完璧なんだからな!!」
「はいはい」
負けず嫌いな言い分を適当にあしらって、烈は困ったようにそのやり取りを見守っていたJへと向き直った。
おそらく豪のことだから、自分の疑問をぶつけて解消してそれで終わっていたのだろう。こんな細かな伏線にまでは気づいていないだろうし、豪のことを良くも悪くも正しく理解しているJがこんな複雑な伏線をいちいち解説しているわけもない。心配そうに豪を見やるその視線からも、烈は己の推測が間違っていないことを確信する。
「最新巻がもうすぐ出るから、そしたら持ってくるよ」
続きが気になるでしょう、と豪に対するのとは正反対のやさしい笑みで告げれば、Jは驚いたように目を見開いてから「ありがとう」と笑い返した。
「ところで、話は変わるんだけど、ちょっとこっちに目を通してもらっていいかな?」
「練習場の件?」
「そう。それで相談しようと思って、Jくんを探してたんだ」
大人びた友人の年齢相応の一面を知ることの出来た貴重なひと時は、そのままにわか戦略会議場へとシフトして、日常へと同化していった。背景に、いつまでも終わらない豪の唸り声を響かせたまま。
fin.
時を重ねるほどに知ることが増えていって、時を重ねるほどに知らないことにたくさん気づかされる。
すべてを埋めることはかなわず、たくさんを埋めたというにはきっとまだ遠いけれども、ひとつひとつを積み重ねていける。
たとえばこんな意外な一面も、愛しい君の素顔なのだと。
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