■ ファザーズ・デイ
たまっている雑務もなければ、近く、特に大きなイベントがあるわけでもない。平和にして平凡な、ありがたい休日。目覚まし時計に叩き起こされたのではない自然な目覚めにうつらうつらとまどろんでいた土屋は、ふと感じたこうばしい香りに、ようやく体を起こす。
寝呆けまなこを引きずったまま着替えをすませ、顔を洗って神経を揺り起こす。まともに機能しはじめた体でにおいの元を辿れば、迷うことなくリビングへ。
「ベーコンエッグかな?」
「和食のつもりだったんですけど、ご飯をセットし忘れちゃったので」
一続きになっているキッチンをのぞけば、そこにはエプロンをつけたJがいる。挨拶代わりに手にしているフライパンの中身を問うと、やわらかな微苦笑が返された。
慣れた手つきで焼いていた卵を皿に移し、きちんと向き直ってから一言。
「おはようございます、博士」
まばゆい笑みを込みの挨拶で、二人の一日は始まっていく。
「おはよう、Jくん」
出来上がった朝食を食む横では、コーヒーメーカーが心地よいリズムを刻む。
「今日は、何をするんだい?」
「溜まってしまった宿題を片付けようかと」
「君が溜め込むなんて、珍しいね」
「やっぱり、試合が立て込むと、時間配分を見積もりにくくて」
はにかみながらそう告げるJは、しかし、あまり気にした風もない。のんびりパンにかじりつきながら、同じ問いを土屋へと向ける。
「私は、そうだなあ。特にやらなきゃいけないこともないし、片付けでもしようかな」
そういえば、夏が近い。そろそろすだれやら扇風機やら、夏向けの小物を出しておく準備をしたほうがいいかもしれない。なにせ、夏休みが近づけば、小規模なものから大規模なものまで、レースが目白押しだ。忙しくてまともに時間が取れないのは、想像に難くない。
ひとりでうんうん、と頷き、土屋は本日の予定に、物置部屋の探索を追加する。
「どうかなさったんですか?」
「ああ、いや。もうすぐ夏だなあ、と思ってね」
唐突に表情を変えた土屋を不審に思ったのか、Jはいぶかしげな視線を送ってきたが、返された言葉に、得心したように目を細める。
「暑くなってきましたしね」
「でも、その前に梅雨か」
ここのところ調子がよくない乾燥機を思い出し、土屋は電気屋に連絡を取ること、と、頭の中の行動メモに更に書き加える。正面でやわらかく同意を伝える首の動きがふとそらされ、最後に残っていたサラダをこくりと飲み込むと、Jはするりと席を離れる。その動きを追って首を巡らせれば、コーヒーメーカーから二つのカップに淹れたてのコーヒーを注ぐ姿が視界に映る。
Jはいつだってタイミングを掴むのがうまい。いつものように、食べ終わると同時に目の前に置かれるコーヒーカップに、土屋は幸せを噛み締めて礼の言葉を舌に乗せる。それにはにかむような笑みと軽い会釈を残して、Jはもう一度キッチンへと姿を消す。土屋はストレートで飲むが、Jは伸び盛りの体へのカルシウム摂取も兼ねて、牛乳を入れるのが常なのだ。パタン、と、冷蔵庫のドアを開閉する微かな音を背中に、Jは牛乳パックを右手に戻ってくる。
喉に流れ込む熱いコーヒーの、湯気の向こう側にあるそれらの動きを観察していた土屋は、なぜかいささか緊張した面持ちのJに、違和感を覚えてカップを下ろす。見れば、椅子の前までやってきたJは紙パックをテーブルに置き、そのまま視線をあちらこちらへとさまよわせている。併せて不自然なのは、背中に回されたままの左手だ。
このタイプの姿勢に、土屋は免疫がある。ものを壊したか何をしたか。ちょっと気まずいことを大人に報告するときの、子供たちの態度だ。
特に思い当たる節もなく、珍しいことこの上ないJからのそんな態度に、土屋はただ黙って、相手が切り出してくるのを待つ。
「あの、今日が何の日か、ご存知ですか?」
「今日? 何かあったかい?」
ようやく切り出されたのは、別に当たり障りのない話題だ。慌てて、問われた内容を思うが、土屋には特に、この日が何か意味のある休日だとは思えない。
困りきって首をかしげると、Jは困ったように眉を寄せ、ひとつ深呼吸をしてから背中に回していた左手に右手を添えて、土屋へと差し出した。
目の前に突きつけられたのは、綺麗にラッピングの施された箱だった。包装紙には見覚えがある。駅前にある、この辺で一番大きな百貨店のものだ。
「今日は、六月の第三日曜日です」
「え? ああ。そうだね?」
顔を僅かに伏せ、Jは意を決したように告げる。だが、土屋にはやはりぴんと来ない。差し出されたからには己に渡すことを目的としたものなのだろうが、意味もわからず受け取るのもまた憚られ、土屋はどうすることもできず、包みとJとを見比べる。
「父の日、なんです」
上目遣いに何もわかっていない土屋を見やり、Jは声を絞り出した。
瞬きを繰り返し、土屋はただ差し出されたそれを凝視することしかできなかった。
「い、いつもお世話になっているから、お礼をしたかったんです。そしたら今日が父の日だって、みんなが言っていて、お父さんに感謝して、そのお礼をする日だって」
まだわかってもらえていないのかと、Jは説明を継ぎ足す。ただ、その記念日の定義を言い終えたところで、あからさまに狼狽した様子をなぜかさらにエスカレートさせていく。
「厚かましいっていうことはわかっています。ボクが勝手に、そう思っているだけです。でも、博士はボクにとって、その――」
何の日かを告げ、この行動に繋がる経緯も簡単に述べた。それで包みの目的は察せるだろうに、土屋はやはり受け取ろうとしない。大切だと思うからこそ、この優しい保護者を傷つけないために、余計な気遣いをさせてしまわないために。そして、覚悟していた展開とはいえ、それに対して己が傷つかないために。Jは必死に弁明しながら包みを机上に置くと、それでもどうか感謝を受け取ってはもらえないかと言葉を募る。
「お父さんみたいな人だから」
言ってはいけないかもしれないと思っていた。ただ、そのひと言こそがもっとも的確に思いを示す単語だということも知っていた。だからあえて、Jは拒絶されることへの恐怖を押し殺し、躊躇いにがんじがらめにされていた言葉を喉から押し出す。
微妙な間となって流れるいたたまれない沈黙に、いっそ逃げ出してしまおうかと思いはじめた頃。
Jは、頭を乱暴に撫でさする感触に、気づけばぎゅっと閉ざしていた視界を、恐る恐る押し開ける。
「開けてみてもいいかい?」
「はい」
上目遣いに土屋が座す方を見やれば、そこには左手を包みに添え、身を乗り出して空いたほうの手でJの頭を撫でる姿がある。覗き込むように俯くJと視線を合わせ、反射的に頷く子供ににこりと笑い、座るようにと身振りで示す。
テープを丁寧にはがし、包装紙を剥ぎ取れば、中にあるのは細長い箱。確認をとるようにJへと目線を一旦流し、土屋は中身を取り出す。
「ネクタイか。君が選んでくれたのかい?」
「は、はい」
今日の土屋は休日ということもありワイシャツではなかったが、淡色の上着をいいことに、手馴れた様子でネクタイを首元に合わせる。
「どうだい? 似合うかな?」
「お似合いだと、思います」
しっとりと落ち着いた色合いは土屋の柔和な雰囲気を際立たせ、穏やかな気配にアクセントを加える。自分の見立てが悪くなかったことに満足しながら、Jは素直に頷いた。
「織り目も綺麗だが、実にいい色だね。静かで、やさしい色だ」
ためつすがめつ、土屋は笑みを絶やさない。その様にくすぐったい喜びを覚え、Jもまた、はにかむようだった笑みを深めていく。
一通り眺めた土屋が、ふと顔を上げ、Jにまっすぐ真剣な表情を向ける。
「とても幸せな贈り物だ。ありがとう。大切に使わせてもらうよ」
「喜んでいただけたなら、ボクも嬉しいです」
逃げることなく正面から土屋の視線を受け止め、Jはますます笑みを深めた。
緊張がとれ、軽やかな挙動で食べ終わった朝食の食器を片付けるJの背中を、土屋は新聞越しにそっと見やる。
今日から、お気に入りのネクタイはこのネイビー・ブルーの一本に決定だ。
よりたくさんつけようと思う。より長く使っていたいと思う。
誰にも通じなくてもかまわない。ただ、それを身につけるのは、世界に対する最高位の自慢だ。あの子が自分に、よりにもよって父の日を選んで贈り物をしてくれた。あの子が自分に向かって、「お父さんみたい」だと言ってくれた。その最高の瞬間を、世界中に自慢して歩くのだ。
そして土屋は願う。
投影対象としてではなく、一人の家族として、あの子に縋られる日が来ることを。
自分の向ける思いを、遠慮のフィルターなどかけずにまっすぐ、うぬぼれるぐらいの勢いであの子が受け取ってくれる日が来ることを。
もっと距離を縮めて、ずっと距離を縮めて。
そしていつか、そのセリフから「みたい」というパーツを取り除ける日が来ることを。
そんな夢のような日がこの日常の延長線上に来ることこそが、最高の父の日の贈り物だと、あの子に気づいてもらいたい。
その一方で、そう願うことが、己の傲慢ではなければいいと、土屋は切に祈るのだ。
fin.
贈られた幸せは、笑顔になって子供に返る。
ひとつの幸せがふたつになって、それが嬉しくてみっつになって、やっぱり嬉しくてよっつになって。
いつまでも続く幸せの連鎖は、きっともっと幸せな未来に続いている。
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