■ ハッピー・アフター・スクール
Jからねだったことは一度も、ただの一度もない。だが、土屋はよく、Jに小遣いを渡す。
はじめは、豪たちに誘われて、なかば強引に外に連れ出された日。残暑の厳しい、秋の日のことだった。
暑いし、喉も渇くだろうし、何か買うかもしれないしと。五百円玉を握らされた。
結局、それを使うべきか否かがわからず、どうすればいいのか困惑したまま持ち帰った硬貨は、土屋の手元に戻ることはなかった。君にあげたのだから、好きなように、君が自由に使いなさい。土屋はそう言って、Jの差し出した手を、やんわりと、しかし絶対の意思をもって突き返してきた。
それから、土屋からの不可思議なお小遣い習慣がはじまった。
お使いに行ったときのお釣りだとか、ちょっとしたイベントごとに出かける際に渡されたりだとか。もともと物欲のあまりなかったJは、やはり困惑するばかりで、滅多に使われることのないそれらはやがて、かなりの額に膨れ上がった。
出不精の人間が人込みの中に率先して出かけたがためだろう動悸を必死になだめ、Jは深呼吸をひとつ。学校帰りの制服のまま、デパートに足を踏み入れる。
慣れない行動にうろたえ、買いに来るのは時期尚早だったかとも思うが、土屋に気づかれては意味がないので、きっとこのぐらいがちょうどよかったのだと考え直す。
本当に、彼はよく自分のことを見てくれている。些細な表情の変化も態度の変化も、余すことなく見破られている。その上で黙っていてくれたり声をかけてくれたり、対応は臨機応変で細やかだ。
そんな土屋だからこそ、うっかり休日に珍しくも出かけたりするわけにはいかない。こっそりこの作戦を遂行するには、こうして放課後に寄り道をするのが一番で、本来ならクラブのあるはずだった今日こそが最適なのだ。
右手は肩にかかるカバンの紐をぎゅっと握り締め、左手はポケットの中の財布を落ち着かず確かめる。エレベーターホールまで辿り着き、売り場案内を眺めやり、目的地は四階。
ずっと貰うばかりで使いもせずに溜めてきた小遣いを、いま使わなくて、いつ使うのか。Jは小さく胸中で頷き、エレベーターを呼ぶボタンを押す。
今日ここを訪れた目的はただひとつ。父の日のプレゼントを買うのだ。
実のところ、Jはまだ、何を買うかを明確に決めてはいない。
チームメイトたちの話も聞いたし、学校でクラスの友人たちとそれとなく話をしてもみた。ただ、いずれにせよ彼らとJとでは条件が違いすぎる。渡したい相手の好みも癖も、生まれたときからずっと付き合っていてほぼ完璧に把握している彼らと、同じ屋根の下で暮らすようになってからようやく一年に満ちすらしないJでは、発想力に隔たりがあるのは否めない。
無論Jは、きっと何を渡しても土屋が喜んでくれるだろうことは知っている。
彼は、そういう大人だ。その器の大きさややさしさを嬉しく思いこそすれ、文句を言う気になどとてもならない。ただそれでも、より彼から大きな喜びを引き出したかったのだ。
まずは実用品と思い文具のコーナーを見て回ったが、ピンと来るものがない。では次点と、フロア反対側の紳士服コーナーを目指してみる。
さすがにこの時期の商戦の目玉だからか、フロアは父の日フェアの装飾に染まっている。わかりやすく青系のフラッグやらが示すプレゼンの提案を眺め歩くうち、辿り着いたのはネクタイ売り場。
父の日をターゲットにした売り場の構成とはいえ、主要な客層は主婦たちだ。場違い感に少なからぬいたたまれなさを感じつつ、遠慮がちに並ぶ色とりどりのネクタイへと視線を転じる。
土屋にはきっと、落ち着いた色がいいだろう。明るい色も似合うと思うが、Jの中の土屋のイメージは、どちらかといえば深みのある色合いなのだ。
みんなの博士としての土屋は、やさしくて明るい色。
ひとりの研究者としての土屋は、どっしりと厳しさすら感じられる色。
そして、Jの養父としての土屋は、しっとりと落ち着いた色。
これらすべての色合いを、肌をもって知っているのはきっと、自分だけだろう。
仲間たちよりも所員たちよりも、少なくとも半歩ほどは近い土屋との距離を思い、Jは少しだけ誇らしくなる。誰よりも彼が自分を見て思っていてくれるように、自分だって誰よりも、彼を見て彼を思っている自信がある。それが特別な絆のように感じられて、嬉しくて、心の片隅で安堵したのだ。
土屋からの思いは親愛で、自分からの思いはきっと、縋るという気持ちに似ているのだろう。
互いが互いに向ける思いの属性が決して重ならないことは、Jも自覚している。土屋も知っている。そして土屋は、それでもかまわないと、黙ってやさしく包んでくれる。
残像を重ねることも、目を逸らしてただ過去を追うことも、すべてを拒絶せずにいてくれる。だからこそJは余計に、縋るのではなく土屋を思い、向ける気持ちに歯止めがかからなくなる。徐々に徐々に、その色味が変わっていく。
自分の養い主としての彼ではなく、大切な家族としての彼に縋る気持ちへ。
膨れ上がるほどに思いは深い。ただ、それを伝える術をJはまだ知らないから、目の前に迫るチャンスに、ありがたく飛びつくことにする。なんでもいい、わずかでもいい。彼に、自分もまたあなたを思っているのですと。そう伝えることができるなら。
だからJは、一生懸命になって贈るものを選ぶ。それは、自分の気持ちをいっぱいに込めたものであるべきだから。
次々と目的の品を手に取っている主婦たちの合間にひょっこり紛れ込んでいる子供に気づいたのだろう。声をかけてくれた店員に、Jは第一印象の強かった、ディスプレイに飾られているネイビーのネクタイを所望する。柄は特にないが、織り目が独特で綺麗だと思ったのだ。
会計を済ませれば、サービスで包んでくれるという。ありがたく好きな包装紙を選び、メッセージカードもつけてもらって、少しうきうきしながら帰路につく。
大切で大好きだから、いま、ひたすらに願うことはただひとつ。
これを贈ったそのときに、喜んでくれると嬉しいのだ。
fin.
どんなに不安な思いをしても、慣れないことをしてどきどきしても、その向こうを思えばたいしたことはない。
あなたは喜んでくれるだろうか。笑ってくれるだろうか。
その不安とどきどきの方が、よっぽど大きくて大切なものだから。
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