■ たとえば
 その仮定が無意味であることは、誰よりもよくわかっているつもりだ。だからこそ誰にも、あえて指摘などしてほしくないと思う。
 意味あることにしか価値がなく、この思いに意味がないなら、それでかまわない。ただ、邪魔をされたくないと願う。


 たとえば、あのときこうしていれば、とか。
 思いを馳せない日などない。



 あのとき。
 嫌なら、はっきりとそう告げるのだった。
 拒絶の意志を示せばよかった。自分の意思を殺すのではなかった。反駁も謝罪も、押し込み、ため込むのではなかった。
 だからボクはいま、こんなにも後悔に駆られて、自分を許せないでいる。
 思いは遠く、そう、そしてあのとき。
 素直にあの人の目を見ておくんだった。伸べられた手を取っておくんだった。かけられた声に振り向いておくんだった。促す言葉に応えておくんだった。問いかけにまっすぐ向き合うんだった。
 だからボクは、いまこんなにも悲しみに駆られて、自分を赦せないでいる。
 そうだ、あのとき。
 あのとき、あの人に思いを伝えておくんだった。
 もう叶わない。二度と叶わない。
 伝えたくても声は届かず、探したくても世界が違う。ぐるぐると廻る思いは、そして過去から現在へ、未来へと触手を伸ばしていく。
 ボクは今日、いったいどれほどの後悔を得ただろう。
 あなたの思いに、言葉に、行動に。ボクはどれほどの思いを返すことができ、言葉を当てはめることができ、行動を示すことができただろう。
 すべては喪失へと向かって加速していく。あなたはそうではないと笑うけど、ボクはそうだと知っている。
 やさしい嘘に騙されるのは、嫌いではない。それは、あなたがボクを思ってくれている、何よりの証拠だから。
 でも、だけど。
 知っていますか。
 目の前に突き付けられ、既に自己の中核に据えられた軸。それをあたたかな嘘で否定されることが、どれだけ苦しいかを。


 時間は問わない。ただ、天気がいい日は、一日に一度くらいは外に出て、日の光を浴びるようにしなさいと、新しい保護者に言われた。
 彼は、自分を縛ろうとしない。
 Jにとってはそれが新鮮で、それ以上にあまりに非現実的で、何をどうすべきかがいまだによくわからない。言葉にしなくても、彼にはその戸惑いが伝わったのだろう。わからなくてもいいから、実践していてごらんと、本当にやさしく笑われた。
 夕暮れが好きだった。昼でも夜でもない、世界の定義から外れて、ただそこにあるだけの時間。異形のものすらうろつくいまなら、明らかに異彩を放つ自分が世界に溶け込むこともまたたやすいだろうと、Jは皮肉げに唇を吊り上げる。
 空が真っ赤に燃えて、そして蒼い闇に呑まれていく。裏庭の雑草の向こう、何かは知らないがそびえ立つ木の枝に腰を下ろし、Jは世界が移ろうさまをただ眺める。
 黄昏時は、逢魔が時。
 胸の内に巣食う闇に、じわじわ喰われていく気がした。
 喰われて、喰い尽くされて。そして闇に溶け込んでしまえたら、どれほど気楽なことだろう。
 これでもずいぶん穏やかになったと自認していたが、根底に流れるものはそうそう変わらないらしい。こんなにどろどろした自分のことは、保護者やあの少年たちには見られたくないと願えるだけ、まだ前を向けているのだと信じたい。


 今日、この一日もまた、過去へ向かって飛び去っていく。
 この瞬間もまた、これからやってくるだろう未来も、また。すべては加速して喪われていく。
 ボクはその喪失の中で、どれほどの思いを、言葉を、行動を。あなたに捧げられるだろう。
 あの人との時のように、ここもまた、後悔だらけの痛みに、なってしまうのだろうか。


 そして、たとえばいつか訪れる、あなたを喪った時に。ボクはまた後悔するのだろうか。
 いかな形であれあなたに向かうこの思いを押し隠し、あなたの嘘にただ騙された振りをした己を。悔い、恨むのだろうか。
fin.
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 後悔のない世界があるとは思えない。
 それでも、せめてはもう少しましな時間を積み重ねたいと願うのは人の業。
 そうして少年は今日も、やさしさに騙されて、あたたかな嘘に騙されて、やわらかな嘘を身に纏う。

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