■ 桜に見る夢
 散って舞って、花吹雪。薄紅色の嵐。地を埋め記憶を埋め、そして消えていく。
 帰りたい場所は思い出せない。行きたい場所は思い出せない。
 伸べられる手を見た気がした。呼ぶ声を聞いた気がした。とどめたいと願ったそれは、花嵐の向こうに消えていく。


 はっと息を呑み、誰かを呼ぶ己の声に、Jは目を見開いた。視界に映し出されたのは、まっすぐ上に向かって伸ばされた腕と、無感動にそれを眺める白い天井。
 夢と知り、悲しくなって視界を覆うようにして腕を下ろす。
 また巡ってきたのはやさしい季節。あたたかく、命の息吹を支え、懐かしい思い出を彷彿とさせる時間。誰かと見たはずなのだ。誰かと一緒に、この花吹雪を見たはずなのだ。それは確かなのに、それ以上のことがなにも思い出せないのもまた、確かなのだ。



「やっぱり桜は花吹雪が綺麗だね。散ってしまうのは惜しいけど」
 研究所の裏手には、実はけっこう立派な桜の木がある。大きく枝を広げ、春になれば見事なまでの花を咲かせる。例年通り、桜が満開を迎えたとある昼下がり。そこから僅かに距離を置いたところでぼんやりと、風に枝が揺れ、花弁が散り行くさまを見ている少年を見つけ、土屋はそっと歩み寄ってみた。
 笑みと共に語り掛ければ、Jは何とも言いがたい目線を合わせてくる。
「桜は嫌いかい?」
「思い出せないんです」
 当たり障りのない話題のはずだったのに、返されたのはやけに重い反応だった。子供の内心で起きている感情の波が読み取れず、そっと、押し付けがましくならないよう土屋が細心の注意を払いつつ重ね問う言葉に対したのは、震える細い声。僅かに寄せられた眉根は悲哀を、握り締められたこぶしは苦悶を。無音ながらも雄弁に語る。
「忘れたくないのに、どんどん消えてしまうんです」
「それは、記憶のことかい?」
 言葉少なに告げられた内容を探りながら問いを重ねれば、黙然と頷き、子供は続ける。
「こうやって桜を見るたびに、記憶が薄れているのを思い知るんです」
「記憶が褪せるのは仕方ないことだよ」
 苦痛に思うことではない。それは摂理であり、人が時の流れに逆らえない以上、抗いようのない現実。そう緩やかな声音で諭しても、Jは黙ったまま、目を逸らすだけだ。
 どうしたものかと、土屋は考える。自ら過去を語ることはなく、触れられることに拒絶を示す。その一方で向き合うことを望み、失うことに恐怖している。もっとも、それらが普段、表に出てくることはない。珍しくいつにも増して感傷的な空気を醸し出す少年が、いまこの場に何を求めているのかが読み取れない。ただ、心の一番深い部分を剥き出しにしてくれる滅多にないチャンスを棒に振ってはいけないと、土屋は慎重に思いを沿わせていく。
「君は、忘れるのが辛いのかい?」
 この桜の花弁のように、流れる風に吹き散らされるのが恐ろしいのか。残酷な問いだと内心で眉をひそめながら、土屋は言葉を止めない。
「たとえそれがどうしようもないことだとわかっていても、認められないのかい?」
「忘れてはいけないんです。それは、彼らへの冒涜だから」
 無表情に、地面に向かって呟かれた沈痛な響きに、土屋は憐れの情を掻き立てられる。
「それは少し違うよ、Jくん」
 長く生きればそれだけ、喪失の経験も増える。己の持つ経験は彼がかつて受けた衝撃と、また質の違うものと知りつつも、土屋は語ろうと思う。
「傷にしながらでも一つも記憶を失いたくないと願うのは、喪われた人への哀悼ではない」
 だからあえて、冷然と言い切った。


 言葉に対して鋭く、反駁の思いに敵愾心すら込めて土屋を射ぬいた視線は、しかし。すぐさま光をぼかし、諦念を湛えて逸らされる。この、すべてを諦めるような瞳の色こそが問題だと、土屋は微かに表情を歪める。
「私は何も知らないよ。君が誰を、何を思ってそんな気持ちを抱いているのか。私には、推測することしかできない」
 共有することはできない。彼の中でさえ決着の追い付いていない事象を引きずりだせるほど、土屋は感情や心という存在の扱いに長けてはいない。
「ただね、思うんだ。君が思いを馳せる人はきっと、君の傷を望んではいないと」
「憶測にすぎません。彼らはむしろ、ボクを恨んでいるかもしれないのに」
 その喪失には、直接的にせよ間接的にせよ、紛れもなく己の存在が関わっている。ふいと目元を歪め、Jは嗤う。
「誰にも、もうわからない。ならば、ボクぐらいは憶えていないといけないのに」
 降り注ぐ淡い紅色の花弁に彩られ、その笑みはいっそ、暗く凄味をもったものとなる。
 重傷だな、と、土屋は密かに表情に険を滲ませる。どうしてこんなにも深い傷になってしまっているのか。それは彼のせいではない。まだ幼く、何もわかっていなかったろうかつての彼に、手を差し伸べなかった周囲の責任だ。
 なんとかしてあげねばと、そうは思う。思いはするが、どうすべきかが見えてこない。
「積極的に忘れることを勧めはしないよ。それは君の言うとおり、冒涜だから。だが、時間に埋もれての忘却は、別に責められることではないんだ」
「でも、ボクは決めたんです。何もできないから、せめては忘れずにいようと」
「Jくん、君が思う相手を忘れずにいることと、一切の忘却を完全に否定することは、同一ではないよ。忘却を認めながら、残された記憶を大切にすればいいんだ」
「それじゃあ足りません。はじめから少ない記憶は、僅かにでも損なわれればなくなってしまいます」
「君は何のために記憶を欲するんだい?」
 悲痛な声に、土屋は子供の心を追い詰めていたことを知り、話題の方向を僅かにずらす。
「憶えていたいと、それは君の、生者の意見だよ。君の思う人たちは、こうして記憶によって君の心を縛ることを望んでいるのかな?」
「わかりません。もう、彼らの声を聞くことは叶いません」
「ならば、こうも言えるということだよ。憶えていることを、彼らは望んでいないかもしれない。忘却を望んでいるかもしれない」


 弾かれたように、蒼い瞳が土屋に向けられる。そんな逆説的なことは考えたこともなかったのだろう。驚愕と絶望を湛えて見返してくる子供に、土屋はあえて荒療治を続けてみる。
「あまり、自分を追い詰めてはいけないよ。君も言ったね、誰にも本当のところはわからないんだ」
 それを知る相手は、すでにこの世界から損なわれてしまっているから。
「だけど、参考までに、私なりの考えを伝えよう」
 どうか、一日も早く、その束縛から解放されることをと願うから。
「忘却は罪ではないよ。そして、記憶は免罪符にはならない」
 苦しげに、子供の端正な顔立ちが歪められる。突き付けた言葉は、彼の必死の足掻きを真っ向から否定するものだ。せめてもの贖罪にと記憶を求める子供を前に、言うべき言葉ではないのかもしれないと、土屋は内心で思い悩む。
「焦ることはない。ゆっくり考えなさい」
 決め付けて、退路を断って、ただ一つの選択に固執するのでは、見えるはずの光すらわからない。
「薄れた記憶を思いながら、遠い日々を懐かしめばいいんだ。あまり、自分をいじめるものじゃないよ」
 困惑を見せて俯き、悩みはじめてしまったらしい生真面目な少年に、土屋は微笑みかけてから頭上を仰いだ。
「ほら、綺麗だね。この瞬間も、君が必死に守ろうとする思い出も、また別の時間も。いつか君が大きくなって、どこかで桜を見たときに何を思い出すのかはわからない。でも、どれでもいいんだよ。時に君は幼い日を思うだろうし、今日を思うだろうし、別のいつかを思うだろう。そのすべては君の自由だ。縛る必要はない。そのことを覚えていてほしいと、私は願うよ」
「博士のおっしゃることは、難しくてよくわかりません」
「今すぐわかる必要はないよ。ただ、これで君の中の絶対の定義に、考える余地が出てきただろう?」
 自分を振り仰ぎながらの苦い声に、土屋は軽やかに笑う。逆に問い返せばJは不満げながらも頷き、視線をずらして桜を見上げる。



 幽玄な光景に目を奪われる中、不意にJが言葉を落とした。
「桜は、嫌いではありません」
 見やれば、先程までの危うく張り詰めた空気はどこへやら、穏やかに瞳を眇め、花吹雪に溶け込みそうな風情で立ち尽くしている。
「思い出せなくても、やさしい時間だったことは知っていますから」
「それは、幸せな記憶だね」
 はにかむような笑みを刻んで首肯し、Jは散る桜を眺める。そして思う。幸せでやさしい記憶だと、それだけを覚えているからこそ、いっそう切なく辛いのだと。


 今宵もきっと、夢を見る。
 そしていつの日か、隣に立つぬくもりを失って、また夢が重なっていく。
 今はここに帰りたい。今は彼の隣に行き着きたい。名を呼ばれ、手を伸べられ。指先にぬくもりを知って眩暈を覚える。
 花嵐の向こう、この現実がいつか夢に変わる日を思って、悲しくなる。
 この思いすらいつかは薄らいでいくことを知っているから、悲しくなるのだ。
fin.
BACK       NEXT

 忘却は罪ではないと、あなたはそう言う。ではあなたは、僕に忘れろというのですか。
 記憶は免罪符ではないと、あなたはそういう。ではあなたは、僕に憶えるなというのですか。
 ではどうすればいいのですか。消えていくあのやさしさを、朧に眺めるこの狂おしいまでの悲しさを。

timetable