■ 恵方巻き
 呼びかけに振り向いた先には、神妙な表情をした子供がいた。
「どうしたんだい?」
 終業時刻を過ぎ、そろそろ夕食だなあ、と思いつつ、今夜のメニューを考えていた土屋は、意見を聞くいいチャンスだとにこりと笑いかける。
「……あの、凄く変なことを聞くんですけど」
「どうしたんだい?」
 先と同じセリフを、今度は幾ばくかのいぶかしみを込めて返せば、Jは俯かせていた視線を上げ、思いつめた様子で一気に問いかけてきた。


「今日は、長いお寿司を丸呑みしないといけない日だって、本当ですか?」
「え?」
 一体何を言い出すのかと、脈絡の見えない問いかけに土屋は思わず素っ頓狂な声を上げる。しかし、Jはいたって真面目な表情だ。どういうことかと先を無言で促せば、きゅっと柳眉を寄せたままJは視線を揺らす。
「長い巻き寿司を切らないでそのまま一気に食べて、それで一年の健康を願うんだって聞いたんです。そうしないと、病気になったり怪我をしたりするって」
 でも、そんな無茶な食べ方をすれば喉に詰まって苦しいだろうし、かえって不健康な気がする。慣習だから別に効能を期待するわけではないが、そんなことが果たして事実なのか、気になって仕方ない。
 真面目に、不安そうに、必死に。注がれる視線はまっすぐで、土屋は決してJがふざけているわけではないことを悟り、そして少しだけ目が遠くなる。
「……どこで聞いたんだい?」
「さっき平本さんが、今日は夕食はお寿司を食べないとね、という話をしはじめて、それで」
 どういうことかと問いかけたJに、今日はそういうことをする日なのだと由来を聞かせたらしい。
 JはJで、生真面目な表情で淡々と冗談を口に出来る性格らしいことが最近わかってきたが、今話題に上がった平本青年には劣る。彼は、Jが時たま酷くずれた常識を持っていることを知っていて、その上でこうしてからかっては土屋や他の職員を巻き込んでの他愛のない一悶着を起こすのだ。
「Jくん、それは平本くんに騙されたんだよ」
「えっ!? そうなんですか?」
「そうだよ」
 完全に否定はしないが、完全に正しくもない。これは今夜は巻き寿司で決定だな、と考えながら、土屋はJに頼もうと思っていた雑用をひとつ願い出て、振り返る。本当は書斎に戻るつもりだったのだが、研究室に一仕事、残業が出来てしまった。


「どちらに?」
「ちょっと、平本くんと話をしてくるよ」
 まったく、とぼやきながら重苦しく溜め息をつく土屋は、Jが騙されては翻弄されるたびに最後に付随するお馴染みの表情だ。文句を言いつつも別に深刻な事態に発展するわけではないことを知っているので、Jもまた淡く苦笑を浮かべて見送るだけだ。これも、ひとつのコミュニケーションである。
「今夜は恵方巻きだね」
「えほうまき?」
「平本くんの冗談の本当の意味だよ」
 後で食べながらでも説明しようね、と笑って、土屋は足を踏み出す。
 夕食のメニュー決定と話題提供に一役買ってくれたのはいいが、真面目な子供を変に振り回されて、間違った知識を植えつけられても困る。とにかく、苦言のひとつでも呈さないと、と思い実行するそんなところが更に平本青年のいたずらをエスカレートさせているとは露ほども知らず。土屋は足早に、相手のまだ残っているだろう研究室へと向かうのだった。
fin.
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 ことあるごとに縁起を担ぐほど信心深くはないけれど、君のためならいくらだって担ごう。
 無病息災が本当ならば良いと思う。
 それが君にかかることならば、どんな迷信も、良い意味で真実であることを祈る。

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