■ 一握りの願い事
ふと上空を見れば、そこはぼんやりともやがかかったようになっている。人がたくさんいるから、熱気が立ち上っているんだなあ、としみじみ実感しても、寒さはちっとも軽減されない。
「寒いかい?」
「ちょっとだけ」
コートのポケットに突っ込んでいた両手を口元に、そっと息を吐きかけているJを視界の端に認め、土屋はやさしく声をかける。伺うように視線を上げ、Jは小首を傾げてわずかに眉を寄せてみせた。
「それにしても、すごい人ですね」
さりげなく話題をずらし、Jは遅々として進まない目の前の行列を見やった。ホッカイロは持ってきていたが、のんびりと並んでいるうちに、とっくに冷えてカチコチに固まってしまっている。ポケットをあさり、土屋は帰りのために、と持ってきておいた予備のカイロを取り出し、封を切った。
「ほら、これを使いなさい」
「え? でも、博士は……」
「私は大丈夫だよ」
促すように土屋が微笑みかければ、Jははにかみながら「ありがとうございます」と呟き、素直にカイロを手の中で振りはじめた。しばらくしゃこしゃこと軽快な音を響かせていた小さな白い袋を両手で包み込むと、Jはほんのりと表情を緩める。
「お願い事は決めたかい?」
「はい」
ようやく、人波の向こうに鈴が見えてきた。小銭入れから賽銭を出しながら、土屋は視線をわずかに下向ける。頷く子供は、そのまま視線を流して小さく声をあげ、誰かに向かって手を振る。
「よっ、J!」
「こんにちは」
人々の合間を縫って顔をみせたのは、星馬兄弟。寒さにめげる様子など微塵もない豪の後頭部を、いつでも礼儀正しい烈が押さえつけて礼を送ってきた。
「あけましておめでとう」
「おめでとう、Jくん」
年長二人組がきちんと年始の挨拶を交し合うのをみて、土屋も口を開く。
「あけましておめでとう、烈くん、豪くん」
「博士も、あけましておめでとうございます」
「今年もよろしくな!」
「よろしくお願いします、だろ!!」
年明け早々、いつものやりとりを欠かさない兄弟に、自然と笑みがこぼれる。Jと顔を見合わせて思わず笑った土屋は、「もうお参りはすませたのかい?」と笑い含みに声をかける。
「まだだぜ」
「こいつが、どうしても綿菓子が欲しいって言うから……」
見れば、豪の手にはキャラクターをプリントしたビニールの袋が握り締められている。食欲に我慢しきれなくなり、列を飛び出したところでJと目が合いでもしたのだろう。
「じゃあ、一緒に行こうか」
「はい」
「Jは、もう何をお願いするか決めたか?」
「うん。豪くんは?」
「もっちろん! 今年もマグナムカッ飛びだぜ!」
「あー、豪。お願い事を人に言うと、それは叶わなくなるんだぞ?」
「げっ、マジ!? J、いまのなしな」
きゃらきゃらと他愛のない話に興じながら進めば、賽銭箱はもう目の前だ。
「ほら、三人とも手を出しなさい」
あと数歩のところまで進んで、土屋は子供たちの手に小銭を握らせる。
「あれ? 五円じゃないの?」
手の中には、四枚の銅貨。首を傾げる豪に、土屋はにこにこと笑いかける。
「ご縁がありますように、でもいいけどね。もう少し欲張って、始終縁がありますように」
説明がわかったのかわかっていないのか、不思議そうな表情でそれぞれに手の内を見つめる子供たちに先立ち、土屋は賽銭を放り投げる。
「ほら、鈴を鳴らして」
同じように賽銭箱に向かって放物線を描いた小銭たちが鮮やかな音を響かせるのを追うように、一本の縄に三対の手が絡み、ガラガラと鈴の音が響き渡る。
こんなに混雑しているところで正規の礼をとっても邪魔になるだけだから、パンパンと、柏手二つで土屋は胸の前に手を合わせる。ちろりとまぶたを上げて目の前に並ぶ三人の子供たちを見れば、それぞれに真剣な表情で、なにごとかを祈っている。
この子たちが、いつでも元気でいられますように。たくさんの人に巡り会って、たくさんの縁に恵まれて、元気に前に進めますように。
家内安全、無病息災。
お決まりの願いと共にそんなことを胸中で呟き、土屋は社に向かってぺこりと頭を下げる。
願い事が終わったら、さっさと来た道を逆流して次はおみくじだ。
書かれた内容が漢字だらけで難しいのだろう、大吉のくせにしかめっ面の豪と、それを呆れたように見やる、実は小吉の烈。にこにこと、ただ楽しそうに微笑んで二人を見やるJは中吉だ。
「博士はどうだった?」
「私は吉だね」
もはや内容の解読を放棄したらしい豪に覗き込まれ、土屋は可もなく不可もなくといった一年を予言するおみくじを示してみせる。
「あー、兄貴もJも! そんな細かく読んでないで、屋台見にいこうぜ!」
「わかったわかった。ちょっと待てよ」
「豪くん、おみくじ結ばないと」
「っくしゅ!」
すでにたくさんのおみくじが結び付けられている枝垂桜の前に立ち、豪は手を伸ばすと同時にかわいらしいくしゃみをこぼす。
「ああ、大丈夫かい?」
烈が手馴れた調子でほどけかけたマフラーを結びなおしてやっているのを見て、土屋は微笑みを口元に刻む。一方で、ごそごそとポケットに手を突っ込んでいたJは、すっと握り締めた手を豪に差し出す。
「はい、これ」
「いいのか?」
「うん、ボクは大丈夫だから」
「サンキューな」
「ありがとう、Jくん」
「どういたしまして」
渡されたカイロを頬に当て幸せそうな豪に、烈は礼を重ねた口でやけどの注意を促している。くるりと土屋を振り仰いだJが、声に出さないままカイロの譲渡へ事後承諾を取ってくるのを、土屋は笑顔を添えて頷き返す。
自分だけ暖かいのもなんだからと、豪はカイロを間に、Jの手を握って屋台がひしめく境内へと駆け出していく。人込みの中で走ったら危ないと叱りながらも、やはり走り出す烈や、速度を緩めながらも浮き足立つのを止められない豪、引きずられること自体が楽しそうなJ。じゃれあう子供たちの様子が微笑ましくて、土屋は願い事をもうひとつ思い立つ。
目を閉じて社を振り仰ぎ、今一度うなだれて祈る。
子供たちの祈りが、願いが、どうか届きますように。
fin.
新しい年の幕開けを、穏やかにやさしく過ごしていくこと。
家族と共に、友人と共に、小さな世界と大きな世界の平和を祈ろう。
きっとまた、素敵な時間を過ごすことができると、幸せな確信を持って。
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