■ 空のほとり、君のとなり
「何してるの?」
ひょっこりと覗き込んできた相手に、ボクはとても驚いて、ただ目を見開くだけで返事を返すことができなかった。
ここは研究所の裏庭。建物の壁に寄りかかって、ボクはちょっとぼんやりしていたんだ。
博士が、見栄えがよくなるようにしてくれないかなっておっしゃってくださったから、ボクは博士に引き取られてからずっと、裏庭を好きなようにいじりまわしている。季節ごとに花を植えたり、ハーブを育ててみたり。
いまなら、あれはどうしても心を開けず、新しい環境に戸惑ってばかりのボクのために少しでも感情の発散場所を、と博士が気遣ってくださった工夫なんだな、というのがわかる。でも、そんなことを面と向かっていっても博士ははぐらかすだけだから、ボクはせめて、この庭が綺麗になるように頑張ってみる。仕事の合間とかに、博士や所員のみなさんが裏庭までリフレッシュに来てるのもボクは知っている。この裏庭が憩いの空間になればいいと思う。そうなれるように、ボクは頑張る。それに、土いじりは楽しいしね。
「昼寝でもしてたの?」
「うーん……。まあ、そんな感じかな?」
「それじゃあわかんないよ」
太陽を背にするようにして覗き込んでくる烈くんは、小首をかしげながら言葉を綴る。常ならば、ボクがあいまいにごまかせば大概のことはそのまま見逃してくれる彼が、なぜか今日に限ってしつこく食い下がってくる。なんだかその様子が微笑ましくて、思わず頬が緩んだらしい。彼は拗ねたように眉を吊り上げ、そのまますとんとボクの隣に腰を落とした。
横を向いたまま黙り込んでいる彼に、完全に機嫌を損ねてしまう前に、とボクは口を開いた。
「あのね、空を見ていたんだ」
「空を?」
「うん」
「何がおもしろいの?」
一緒になって空を見上げながら、烈くんはのんびり問い返してくる。どうやら、機嫌は直りかけているみたいだ。
「おもしろいっていうか。たまにね、無性に空を見たくなるんだ。別に海でも、たとえば草原とかでもいいんだけど」
一番身近で、場所を選ばないから空を見たくなることが多いかな。
勉強や研究のお手伝いの合間の、ぽっかり空いた時間の狭間。そういうちょっとした時間に、ボクはよくここまで出てくる。別に何がどうしたっていうわけじゃないんだけど、そういう時間に一人で建物の中にいるのが、ボクは苦手なんだ。自分が独りぼっちになったような気がして、いたたまれなくなってしまう。心がずんずん重くなって、呼吸が苦しくなってしまう。
「自然の中に飛び込みにいきたくなるの?」
「まあね。ほら、空とか見てるとさ、心がすうっと軽くなって、広がっていく感じがしない?」
「わかる気はするけど――」
そのまま、彼は再びボクの目を覗き込むような姿勢をとる。色素が薄くて紅色にみえる瞳の中に、ボクの顔が映っている。優しい色の瞳が、少しだけゆがんだように見えた。すると、気遣わしげな声が降ってくる。
「何か、あったの?」
「何もないよ」
さらりと答えたはず。実際、今日ここに出てきたのもちょっとした気まぐれがきっかけだったと思う。特に気遣われるようなことなんか何もない。それなのに、彼の向こうに見える空がちょっと滲んでいるのはどうしてなんだろう。
こつん、とわずかな衝撃とともに、肩に重みがかかった。見やれば、烈くんは額をボクの肩に押し当てて、そっとまぶたを伏せている。
「僕は傍にいるよ。でも、何も見ない」
だから、泣きたかったら泣いていいんだよ。そう言われて泣くなんて、男としてちょっと情けないのかもしれない。でも、溢れてくる涙は止められなかったし、拭う気にもならなかった。だって、我慢するのは体によくないからね。これでいいとも思う。ゆらゆら揺れる青空を見ながら、ボクはそんなことを考えてみる。
彼は、ボクにとってとても不思議な存在だ。時おり無性に、その空気を探したくなる。目を上げればいつもそこにいてくれるんだって思いたくて、悲しいときとか心細いときとか、その存在をやたらと確認したくなる。するとこうやって、その中に包みこんで、別に責めも慰めもしないで、ただ傍にいてくれる。
「君は、空みたいな人だよね」
視界を覆う青空がもう滲んでいないことを確認してから、ボクはゆっくり口を開いてみた。声は掠れていなかったと思う。たぶん、もう大丈夫だ。彼はちょっと驚いたみたいだった。顔は見えないけど、笑ってくれたのは空気でわかる。
「君は、ボクにとって空みたいな人だよ」
もう一回繰り返して、彼の肩にボクも顔をうずめてみた。正体の見えない、心をどんより重くさせていたもやもやが晴れて、すうっと肩の力が抜けたような気がした。
「もう少し、こうしていていい?」
「どうぞ」
彼は、ボクに空の広さを教えてくれた人。
誰よりも優しくて、誰よりも強く羽ばたいている人。眩しいと、羨ましいと思う。そして、もう少し一人でしっかり歩けるようになるまで、傍にいさせてほしいと思う。
本物の青空に包まれて、彼というボクの空に傍にいてもらう。心が空色に染まるまであと少し。ボクは、この贅沢を堪能することにした。
fin.
一緒に過ごす他愛のない時間を積み重ねて、徐々に互いのことを知っていく。
あるいはそれを依存と言うのかもしれないけれど、いまはまだ、もう少しだけ寄りかかっていたい。
不器用に甘える彼と、器用に甘えさせる彼のそんな関係。
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